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朝倉宗滴 朝倉家四代に仕えて朝倉家の最盛期を築いた知られざる武将

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本棚にあった「大戦国史」という本を眺めていたら、知られざる名将として朝倉宗滴(そうてき)について書かれたコラムがありました。朝倉宗滴は戦国時代好きな人であれば、朝倉家を支えた名将としてご存知だと思います。

 

ただ、興味のない人にとっては知られざる武将になるのでしょうね。日本史でも習うのは、浅井朝倉連合軍が織田信長に破れた「姉川の戦い」か、大名の統治の例として「朝倉敏景十七箇条」くらいでしょう。

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朝倉家の中興の祖である朝倉孝景の八男

朝倉宗滴は諱を教景といい朝倉孝景の八男として生まれました。朝倉孝景は同じ名前の人物が二人おり、朝倉宗滴の父親は朝倉家七代目当主の孝景です。法号から英林孝景とも呼ばれました。ちょっと前までは「朝倉敏景」と呼ばれることが多かったと思うのですが、最近は「朝倉孝景」の方が多いみたいですね。

 

朝倉孝景は非常に優れた人物で、朝倉家の中興の祖といわれました。朝倉敏景十七箇条を制定し、応仁の乱で発生したほとんどの戦いで勝利して、朝倉家の越前支配を確立しました。

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朝倉四代に仕えた実質的な朝倉家の当主

朝倉宗滴は朝倉孝景の八男として生まれ、その後の朝倉家の当主四代に使えました。

  • 朝倉氏景
  • 朝倉貞景
  • 朝倉孝景(英林孝景とは別人)
  • 朝倉義景

朝倉義景は織田信長に破れた凡庸な人物として、悪い意味で有名ですね。織田信長に破れたあと、頭蓋骨を盃にされてしまったという逸話がある人物です。

 

ただ、朝倉宗滴が生きているうちは朝倉家の支配は盤石のものでした。加賀の一向宗とから越前を守り抜き、第十二代将軍足利義晴からの要請で畿内の三好勢とも戦い、近江の新興勢力である浅井亮政を牽制し、朝倉家の最盛期を演出したといわれています。

 

九頭竜川の戦いで20万の一向宗を破る

朝倉宗滴は朝倉家の軍事、政治を実質的に統括していましたが、その最大の戦いは加賀、能登を中心とした一向宗20万(一説には30万)との戦いです。

 

九頭竜川の戦いと呼ばれたこの戦いで、朝倉宗滴は敵に夜襲を仕掛けて機先を制し、最終的に20万の軍勢を打ち破ります。朝倉宗滴が率いた軍勢は一説には1万人にも満たなかったともいわれています。ひょっとしたら日本史上最大戦力差の戦いかもしれませんね。

 

織田信長の躍進を予見していた朝倉宗滴

朝倉宗滴は当時としては驚異的な年齢である79歳で亡くなります。西暦だと1555年ですので、桶狭間の戦いの5年前ですね。

 

死の間際に「あと三年生きて、織田信長の行く末を見たかった」と言ったといわれています。朝倉宗滴は桶狭間の戦いの5年も前に、信長の実力を予見していたといえるでしょう。

 

朝倉宗滴がもう少し生きていたら、朝倉家の未来も違った・・・というのは年齢的に流石に苦しいかな(^^;

 

まとめ ー 知られざる名将は他にも

朝倉宗滴が一般的にどれくらい知名度があるのかは私には分かりません。

 

嫁さんに「織田信長には子どもがたくさんいて、代表的なとこだと信忠、信雄、信孝の三人」と話したところ「織田信長と織田信成(フィギュアスケート選手)なら知ってる」という返事でした・・・

 

朝倉宗滴は知らない人の方が多いだろうなあ。