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歴史上もっとも悲惨な死に方をした将軍「源頼家」について語る

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源頼朝や源義経はご存知の方も多いと思いますが、源頼家というと何をした人なのかパッと出てこない人も多いでしょう。

 

源頼家は鎌倉幕府の第2代将軍です。父親は鎌倉幕府を開いた源頼朝、母親は尼将軍と呼ばれた北条政子です。

 

そして日本史上でもっとも悲惨な死に方をした将軍でもあります。

 

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(出典 Wikipedia)

源頼朝と北条政子を両親に持ちながら、なぜ悲惨な死に方をすることになったのかを、一人の歴史好きが好き勝手に書いてみます。

 

源頼朝の後継者として家督を継ぐ

1199年に源頼朝の急死をうけて、源頼家は18歳で家督を継承します。ところがその三ヶ月後には、有力御家人を中心とする合議制がしかれます。

 

早い話が、権力がトップの源頼家ではなく、部下である御家人たちに握られてしまうのです。

 

1202年には征夷大将軍を宣下され、第2代将軍の座につきます。ただその頃には源頼家の忠臣だった梶原景時が失脚し(梶原景時の変)、将軍になったとはいえ、不安定な政権でした。

 

後ろ盾に比企氏を選んだことで北条氏と対立

源頼家の母親は冒頭でも書いたように北条政子です。北条氏は当時から有力な御家人だったのですが、源頼家はその北条氏に頼ろうとせず、妻の実家である比企氏を後ろ盾にしようとしました。

 

1203年に源頼家は体調を崩したことから、自身が持つ関東の地頭職を弟の千幡(後の源実朝)と嫡男の一幡に譲渡しようとします。ところが比企氏の棟梁である比企能員(ひきよしかず)が、その分配に不満を示します。

 

この時点で弟の千幡(源実朝)は北条方に属していました。比企能員は娘である若狭局が生んだ一幡に、全ての権力を継承させたかったのでしょう。比企能員は北条氏追討を源頼家に直訴し、頼家はこれを「許諾」してしまいます(諸説あり)。

 

これに激怒したのが、実母の北条政子とその父である北条時政でした。

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修善寺で悲惨な最後を遂げる

その後、比企能員は北条時政におびき出されて殺害されます。そして比企氏一族も反抗したものの、源頼家の嫡男である一幡もろともに誅殺されてしまいます。

 

比企能員が謀殺された聞いたときに、源頼家は激怒し、北条時政を追討するように指示しましたが、誰も従うものは居なかったといわれています。

 

梶原景時、比企能員と忠臣を失った頼家は、家督を弟である千幡(源実朝)に譲らざるを得なくなります。

 

失意の源頼家は伊豆の修善寺に押し込められ、その地で北条氏に暗殺されます。

 

その最期は、

「頸ニヲヲツケ、フグリヲ取ナドシテコロシテケリ」

という悲惨なものでした。

 

頸ニヲヲツケというのは、首にヲ(緒)を巻き付けられたのですから、縊り殺されたと考えていいでしょう。フグリというのは陰嚢のことですね。そしてその陰嚢を「取(トリ)ナドシテ・・・」

 

男性であれば、背中がヒュンっと寒くなるような恐怖感を感じてしまうのではないでしょうか。

 

まとめ ー 恐るべきは北条政子

源頼家は前述したように悲惨な最期を遂げました。実家の北条氏に頼らず、なぜ妻の実家である比企氏に頼ったのかは、歴史小説から知識を得ている私には分かりません。

 

それにしても恐るべきは、北条氏の勢力を維持しようと動いた北条政子ですね。源頼家は実子であり、一幡は孫になりますが、それを誅殺してしまうのですから。

 

一説によると、源頼家と比企能員の密談を、北条政子が障子の裏で聞いていたともいわれています。源頼家も実の母が自身を滅亡に追いやるとは考えていなかったのかもしれません。

 

そんな北条政子といちゃいちゃできるゲームがあるらしいのですが、それについてはコバろぐさんに詳しいので、そちらにどうぞ^^