誰も見ていない時間

ゲーム、読書、マンガ、ライフハックなどの雑記

蜀の将軍で最も長生きした廖化。三国志演義だと80歳以上!?

スポンサーリンク

廖化といえば関羽の腹心の武将で、関羽の危機を孟達や劉封、そして劉備に伝えたことで有名です。この廖化ですが、蜀の武将の中ではもっとも長生きだったといわれています。三国志演義で計算するとおそらく80歳を超えてもまだ現役で活躍しました。

 

正史だと登場するのが少し後になるので、おそらく70歳前後だと思います。それでも当時の武将としてはかなりの長生きですね。

 

f:id:kitahana_tarosuke:20180801032241j:plain

(出典 真・三國無双ブラスト)

今回は蜀の将軍の廖化について、三国志演義と正史で調べたことをまとめてみました。

 

三国志演義では黄巾賊の残党から蜀の滅亡まで

三国志演義での廖化の初登場は200年です。このときは黄巾賊の残党でした。廖化は生まれた年は不明なのですが、黄巾賊に参加していることを考えると、このときはすでにそれなりの年齢だったと思われます。

 

仲間の黄巾賊が劉備の二人の婦人をさらってきたのですが、廖化は仲間を斬り殺し、二人の婦人を関羽の元に返します。そして部下になりたいと願い出るのですが、黄巾賊を部下にしたくなかった関羽に断られてしまいます。

 

その後、しばらく廖化は登場せず、次に登場するのがなんと11年後になります。劉備が益州攻略に乗り出すときに、一軍を率いて劉備軍に参加するのです。このときに以前に関羽の部下になりたいと申し出た縁もあり、今度は本当に関羽の部下になります。

スポンサーリンク

 

 

廖化は関羽の副将から蜀の重臣に

廖化は関羽の副将として活躍しましたが、関羽が呂蒙に破れ窮地に陥ると、危機を知らせる使者の役目を担当します。

 

孟達と劉封に援軍を申し出るも断られ、劉備が居る遥か益州まで使いとして馬を走らせます。このシーンは廖化の三国志演義での最大の見せ場かもしれませんね。残念ながら廖化の使者としての活動は虚しく、関羽は捉えられて斬られ、蜀は荊州を失います。

 

関羽、そして劉備の死後も廖化は蜀の将軍として活躍します。諸葛亮の北伐にも参加しますが、司馬懿が落とした冠に騙されて、追跡を誤り、司馬懿を取り逃してしまいます。このときに諸葛亮は「関羽が入れば(司馬懿が討てた)」とつぶやきます。

 

廖化は三国志演義では危機を伝える使者を担当するくらい実直な性格でしたが、武将としての器は関羽や張飛の引き立て役として描かれているようです。

 

廖化の三国志演義の最期は?

f:id:kitahana_tarosuke:20180801034142j:plain

(出典 Wikipedia)

三国志演義では廖化は264年に亡くなっています。攻め込んできた魏の鍾会、鄧艾らの軍勢に対して、剣閣に立てこもっていた姜維の救援に向かいます。ただ、鄧艾の奇襲によって主君である劉禅が降伏すると、廖化も捉えられてしまいます。

 

魏の洛陽に移送される途中で病に罹り、廖化はその長い人生を閉じました。

 

正史では廖化は呉に降伏していた

廖化の活躍は、正史では残念ながら三国志演義と少し異なります。

 

廖化の初出は黄巾賊ではなく、関羽が荊州を任されているときに、その主簿(事務長)になったといわれています。その後、関羽の敗北があり、廖化は呉に降伏します。残念ながら、廖化が孟達や劉封に救援を求めにいったというのは三国志演義の作り話です。

 

廖化は呉に降伏しますが、再び劉備の元に戻りたいと考え呉を脱出します。自分が死んだという嘘の情報を流し、周りを信じ込ませた上で老母とともに呉を脱出したのです。

 

運良く関羽の仇討ちのために呉に向かっていた劉備と遭遇し、夷陵の戦いのあと、無事に蜀に帰参します。その後は失くなるまでほぼ演義と同じです。

 

正史の廖化は意外に如才ない?

廖化は実は正史に正式な伝記はありません。もちろん実在していたことは疑いなく、宗預伝などに記述があります。

 

その宗預伝によると、廖化は意外にも如才ない性格だったようです。諸葛亮の死後、息子である諸葛瞻が政治を執るようになると、廖化は宗預を誘って諸葛瞻に挨拶に行こうと提案します。これは剛毅な宗預が断ったこともあって、 話だけで終わったようですが。

 

まとめ ー 廖化は三国志演義では80歳近く、正史でも70代

廖化は蜀の武将では最も長生きしました。何しろ黄巾賊の乱が初出で、このときに仲間を斬り殺しているので、それなりの年齢になっていたと思います。仮にこのときを20歳とすると、なくなったのは84歳!ですね。15歳としても79歳なので、三国志演義では最も長生きした蜀将といっていいのではないでしょうか。

 

正史では関羽の危機を伝える使者をしておらず、呉に降伏しているのが大きな違いになります。それでもかなりの高齢だったのは間違いありません。劉備の入蜀から数えても43年なので、おそらく70歳は超えていたでしょう。

 

廖化は生まれた年が分からないので、正確な年齢は分からないのですが、少なくとも蜀の建国からその滅亡までを見届けた武将といっていいでしょう。