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坂本龍馬が明智光秀の子孫といわれる4つの理由を検証

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坂本龍馬にまつわる伝承のひとつに、坂本龍馬は明智光秀の末裔である、というのがあります。本当かどうかは別として、戦国時代に破れた武将の末裔が幕府を倒した、というのはロマンがあっていいですね。

 

司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」でも主人公の坂本竜馬が、脱藩前に先祖の明智氏の墓に詣でるシーンがあります。

 

 

司馬遼太郎氏がこのことを書いているということは、史実かどうかはさておき、坂本龍馬は明智光秀の末裔である、という説は世間的には知られていたことになります。

 

明智左馬之助

(出展 鬼武者公式サイト)

今回は坂本龍馬の明智光秀末裔説について検証してみます。

 

あ、ちなみに上のアイキャッチ画像は、カプコンさんのゲーム「鬼武者」の主人公である明智左馬介です。ブログを書いている人がゲーム開発者なので、この画像を選んだだけで、本文とは関係ないことをご容赦ください(名前も一文字違いますしね)。

 

坂本龍馬が明智光秀の子孫といわれる4つの理由

坂本龍馬が明智光秀の末裔といわれるのには理由があります。

  • 「坂本」姓は明智光秀の居城の坂本城から
  • 坂本龍馬の「亀山社中」は明智光秀の丹波亀山城から
  • 坂本龍馬は明智光秀と同じ桔梗紋を用いた
  • 坂本家の家系図に先祖に坂本太郎五郎と記載

それではひとつひとつ検証してみます。

 

坂本姓と光秀の居城の近江坂本城

明智光秀の本拠地は近江坂本城でした。坂本城から坂本姓と名付けた、というのはありそうな気がします。ところが坂本竜馬の坂本家は、当初から坂本姓を名乗った訳ではありません。

 

坂本家は元々は大浜(一説には才谷)という姓で、坂本龍馬の曽祖父の坂本直海が郷士の株を買い、坂本姓を名乗るようになりました。

 

坂本という姓も「坂のふもと」から発祥した姓で、日本各地に存在します。

 

亀山社中と丹波亀山城

明智光秀は近江坂本以外にも丹波一国を支配していました。その丹波の本拠地が亀山城です。

 

坂本龍馬が創設した亀山社中は、後に海援隊となり倒幕に大きな役割を果たします。

 

問題は坂本龍馬がどういう理由で亀山社中と名付けたかですが、これは場所に由来しているといわれています。亀山社中の最初の拠点は長崎の亀山であり、それに仲間や結社という意味の「社中」をくっつけてそう呼ばれました。

 

明智光秀と同じ桔梗紋

明智光秀が家紋として水色桔梗を用いたのは有名です。当時の家紋は黒がほとんどだったので、織田信長が明智光秀の水色桔梗をうらやましがったというエピソードも残っています。

 

桔梗紋

(出展 Wikipedia)

桔梗紋は土岐一族が広く用いました。明智光秀が土岐氏の一族だったのは確実なので、光秀が使用していたのには違和感はないですね。

 

組違い桔梗紋


(出展 Wikipedia)

坂本龍馬が用いたのが「組合い角(枡)に桔梗」といわれる家紋です。中央に桔梗を配置し、周りを組合い角で囲っています。

 

有名な坂本龍馬の写真でも、龍馬の胸の辺りに組合い角に桔梗紋がありますね。

 

坂本龍馬の写真

(出展 Wikipedia)

写真だとちょっと潰れてしまっていて分かりづらいのですが、坂本家はこの組合い角に桔梗を家紋として用いていました。

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坂本龍馬の家系図にある坂本太郎五郎とは?

さて、前述した4つの理由の最後の坂本家の家系図ついては、長くなるので別の項目として取り上げてみます。

 

坂本龍馬の父である坂本直足(なおたり。通称は八平)は、藩に家系図を提出しています。坂本家先祖書指出控と呼ばれる書類で、今も文化遺産オンラインにて現物を確認することができます。

 

 

戦国時代末に山城国から戦乱を逃れて土佐才谷村に来住した坂本太郎五郎にはじまり、明和八年に新規に郷士となった坂本直海~八蔵~長兵衛に至る藩での仕事の履歴が記される。

(出展 文化遺産オンライン)

坂本龍馬の父である八平が提出した書類には、家系図も記載されているのですが、残念ながらオンラインでは確認することができませんでした。

 

うーん。家系図らしきものがあるのですが、さすがに読み取れないですね。いずれ現物を見に行こうと考えています。

 

残念ながら龍馬の父の八平が提出した家系図を確認することはできないのですが、坂本家の家系図について解説してくれているサイトがあります。

 

坂本龍馬家系図:龍馬のルーツ「才谷」探訪

 

家系図をみると、坂本家の先祖は戦国時代の末期に土佐の才谷村に来住した、坂本太郎五郎という人物ということになります。

 

坂本太郎五郎は明智左馬之助の庶子

坂本太郎五郎は明智左馬之助の庶子だったといわれています。明智左馬之助(左馬助)とは明智光秀の娘婿の明智秀満です。

 

明智秀満は一般的には明智光秀の従兄弟といわれていますが、出自は明確には分かっていません。

  • 三宅氏説
  • 明智氏説
  • 遠山氏説

若い頃は三宅弥平次と名乗っていたので、三宅氏説が有力です。いずれにせよ、明智光秀の娘を娶っており、明智光秀の娘婿なのは間違いありません。そのため明智家の重臣として重要な位置にいたのは確かです。

 

明智秀満は1578年に光秀の娘の倫子(お倫)を妻に迎えています。秀満はその後に1582年の本能寺の変をへて、坂本城で自刃しました。このときに47歳だったといわれています。明智光秀がかなりの高齢だったことを考えれば、従兄弟の秀満が40代というのは説得力があります。

 

このときに妻である光秀の娘の倫子も亡くなったといわれています。

 

生き残った明智家の家臣たち

それを考えると坂本太郎五郎という人物は、いつ頃生まれたのでしょうか。考えられるのは明智秀満が光秀の娘の倫子と結婚する前の前妻との子どもです。

 

坂本城で自刃したときに40代であれば、倫子との婚姻の前に妻(側室)がいたと考えて間違いないでしょう。坂本太郎五郎が明智秀満の庶子だといわれているのも、それが所以なのかもしれません。

 

もう一つ問題があるとすれば、明智秀満の子どもが生き残ることができたかどうかですが、実際に生き残ったといわれている人物がいます。三宅重利という武将で、坂本城落城のあとに、貴族の勧修寺晴豊に保護されています。

 

坂本太郎五郎の年齢ははっきりしないのですが、仮に倫子を正室に迎える前にできた子どもだと考えると、それなりの年齢だったことも考えられます。

 

もし秀満と別行動を取っていたとすると、山崎の戦いのあとに生き残ったとしても不自然ではありません。実際に山崎の戦いのあとに、土佐に逃れて長宗我部元親に使えた武将が存在します。石谷文書にも登場する石谷頼辰です。

 

 

石谷頼辰は戸次川の戦いで戦死したことは分かっているので、山崎の戦い後に土佐に逃れたことは確実です。坂本竜馬の明智光秀の末裔説をありえないという人も多いのですが、調べていると可能性としてありうるのでは、と思えてきますね。

 

南国市には坂本太郎五郎のお墓まで存在する

坂本太郎五郎の墓

(出展 南国市公式サイト)

さらには高知県の南国市には坂本太郎五郎のお墓も存在します。その墓には「弘治、永禄の頃の畿内の乱を避け、土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」と記載されているそうです。

 

南国市には坂本家の二代目彦三郎や三代目太郎左衛門の墓もあり、坂本家の先祖が坂本太郎五郎であることは間違いないようです。

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まとめ ー それでも坂本龍馬が明智光秀の末裔なのかは分からない

ここまで書いていてると、坂本龍馬が明智光秀の末裔なのは確実なのでは、と思われるかもしれません。でも、一つだけ重要な点を検証しきれていません。

 

それは坂本太郎五郎が本当に明智秀満の子どもなのか、という点です。明智秀満の子どもだといわれている三宅重利も確証はありませんし、坂本太郎五郎にいたっては、庶子だという伝承が残っているだけで、実際に秀満の子どもだったのかどうかは分かりません。

 

実は坂本太郎五郎の墓に記載されている「弘治、永禄の頃の畿内の乱を避け(以下略)」を考えると、年代が合いません。

  • 弘治 1555年 - 1558年
  • 永禄 1558年 - 1570年

織田信長が死んだ本能寺の変と明智光秀が破れた山崎の戦いはともに1582年です。坂本太郎五郎が「弘治、永禄(1555年 - 1570年)の畿内の乱を避けて」土佐に移住したのであれば、坂本太郎五郎は明智秀満の子孫ではないことになります。

 

坂本龍馬が明智光秀の末裔というのは、ロマンがあって私自身も好きな説なのですが、残念ながら本当なのかどうかは分からない、としかいいようがないようです。

 

二人を結びつける新しい資料でも発見されないかなあ^^