三日天下は本当は12日?間違って信じられている戦国時代の逸話10選
明智光秀の三日天下という言葉はよく知られています。その三日天下は、実際には3日間ではなく12日間でした。
他にも、長篠の戦いの織田信長による鉄砲の三段撃ちなど、史実ではなかったのに史実のように信じられている話はいくつかあります。
今回は史実のように考えられているけど、実際はそうではない戦国時代の逸話を集めてみました。
以前に日本史の伝説をまとめた記事を書いたのですが、今回はそれとはちょっと異なっています。
史実としては有名な話なのですが、(歴史オタク以外には)あまり真実が知られていない話になります。
- 明智光秀の三日天下は実際には12日間
- 長篠の戦いの鉄砲の三段撃ちは実際にはなかった
- 毛利元就は子どもに三本の矢を教えることはできなかった
- 上杉謙信は武田信玄に塩を送っていない
- 徳川家康は三方ヶ原の戦いに嫌々出陣した
- 秀吉は墨俣に城を作っていない
- 風林火山という言葉は現代の創作
- 北条早雲は一度も北条早雲と名乗ったことがない
- 筒井順慶は洞ヶ峠には行かなかった
- 斎藤道三は油を売っていない
- まとめ ー 史実ではなくても読みものとして楽しめる
明智光秀の三日天下は実際には12日間
(出典 Wikipedia)
明智光秀が主君である織田信長を討ち取ったのが本能寺の変です。1582年6月2日の出来事でした。
その明智光秀が豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)に破れたのが山崎の戦い(天王山の戦い)です。日付は1582年6月13日のことでした。
本能寺の変の6月2日から、山崎の戦いの6月13日までを数えると12日間になります。三日天下といっても、実際には3日間ではありませんでした。ただ短期間で終わってしまったために、三日天下ということわざが生まれました。
もし光秀が摂津方面に早く兵をを展開し、細川藤孝や筒井順慶などの与力が味方をし、秀吉の到着が遅れていたら、三日天下という言葉もなかったかもしれません。ただ、そこまで行くと別の話になるので、この辺で。
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長篠の戦いの鉄砲の三段撃ちは実際にはなかった
(出典 Wikipedia)
織田信長が戦国時代最強といわれた武田の騎馬軍団を破ったのが長篠の戦いです。このときに織田信長は三千丁を超える鉄砲を用意し、それを三段構えにして、絶え間なく射撃させることで勝利したといわれています。
ところが最近の研究では、この鉄砲の三段撃ちはなかったと考えられています。
一次資料として名高い「信長公記」には三段撃ちの記載は一切なく、5人の鉄砲奉行に指揮をさせたことのみが記載されています。三段撃ちの記載が表れるのは江戸時代になってからのことです。
織田軍の勝因は鉄砲の三段撃ちではなく、複数の要因がありました。
- 大量の鉄砲
- 野戦陣地の構築
- 戦力差(織田・徳川軍連合軍約3万に対して武田軍約1万5千)
一番の要因は戦力差でしょう。織田軍・徳川連合軍は武田軍の倍近い人数でした。
ただ織田軍が大量の鉄砲を戦場に持ち込んだのは史実なので、それが戦局に大きく影響したのは間違いないでしょうね。
毛利元就は子どもに三本の矢を教えることはできなかった
(出典 Wikipedia)
毛利元就の三本の矢の教えは有名です。
元就が病床で三人の息子を呼び、1本の矢は容易に折ることができるが、3本束ねると折ることはできない。だから3人力を合わせて毛利家を盛り立てていくように、というのが有名な三本の矢の教えです。
プロサッカーチームのサンフレッチェ広島の名前にもなっているこの三本の矢の教えですが、史実ではありませんでした。というのも、元就の長男である毛利隆元は、元就よりも8年も前に亡くなっているのです。
長男の隆元が8年も前に亡くなっているのに、元就が病床に子ども三人を読んで三本の矢の話を訓示する、というのは無理な話ですよね。
三本の矢の教えは、元就が子ども宛にしたためた手紙に、兄弟で協力するように書いたことからできた逸話だといわれています。
上杉謙信は武田信玄に塩を送っていない
(出典 Wikipedia)
敵に塩を送る、というのは、いかにも義将の上杉謙信らしい振る舞いですね。ところがこれも残念ながら、史実とは少し異なっています。
武田信玄が治めていた甲信地方は海に隣接しておらず、駿河か越後から塩を仕入れていました。仕入れていたと書きましたが、実際には商人から購入していたのです。
ところが今川家と手切れになり、駿河系の商人から塩が手に入らなくなってしまいました。上杉謙信は武田信玄と敵対していても、商人の行動を制限せず、塩の販売を止めたりすることはしませんでした。それが敵に塩を送る、という故事になりました。
史実では謙信は、敵に塩を送ったのではなく、商人が塩の販売をするのを黙認した、というのが正しいところでしょうか。
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徳川家康は三方ヶ原の戦いに嫌々出陣した
(出典 Wikipedia)
三方ヶ原の戦いは武田信玄と徳川家康が刃を交えた戦いでした。このときに家康は、浜松城を無視して西進しようとした信玄を、阻止するために出陣したといわれています。
大河ドラマなどを観ていると、家康は「目前を通過する信玄を見過ごすなどは武士の恥」といって勇ましく出陣します。そして三方ヶ原では、戦意の低い織田の援軍に足を引っ張られて結局敗北する、という展開が多いようです。
でも史実では少し異なっています。徳川家康は勇ましく出陣したりはしませんでした。援軍に来ていた織田軍に同調して、籠城しようと考えていたフシもあります。
ほとんどの戦記ものは「権現様」である徳川家康のことを悪く書くことができず、勇ましく出陣するという話を創作したのではないでしょうか。
実際の三方ヶ原の戦いは、数百の徳川軍の小部隊が、武田軍の物見のために出陣し、それを収容しようと出陣した家康が、武田信玄の挑発により引きずり出された、というのが真実のようです。
秀吉は墨俣に城を作っていない
(出典 Wikipedia)
豊臣秀吉の出世譚として有名なのが、墨俣一夜城です。
織田信長は美濃攻略に際し、橋頭堡として墨俣に城を築くことを思いつきました。佐久間信盛、柴田勝家などの有力家臣にそれを命じましたが、建築中に敵に襲撃されてことごとく失敗に終わりました。
墨俣に城を築くことを命じられた秀吉(当時は木下藤吉郎)は、築城に工夫をこらしました。現場で建築するのではなく、必要な材木をすべて事前に用意し、木曽川を利用して材木を流し、現場では組み立てるだけにしたのです。
そのため一夜(実際は数日間)で城を築き上げたのが墨俣一夜城です。
ところがこの墨俣一夜城は明確な資料はありません。一次資料として名高い信長公記には、秀吉の墨俣城に関する記載がなく「洲股要害の修築を命じ」とあります。とすれば、墨俣にすでには城か砦が築かれていたことになります。
江戸時代に書かれた甫庵太閤記には、永禄9年に秀吉が美濃国内で城主になったと記載があり、そのことと墨俣が結びついてできた逸話のようです。
風林火山という言葉は現代の創作
(出典 Wikipedia)
戦国時代最強といわれる武田軍で有名なのが風林火山の旗印です。
風林火山は「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」という孫子の一節を引用したもので、武田軍の進退を表現したものといわれています。
ところがこの旗印ですが、当時は風林火山と呼ばれていませんでした。孫子の一節からとったことから「孫子の旗」と呼ばれていたようです。
江戸時代の文献にも風林火山という言葉はないことから、風林火山という呼称は井上靖氏の小説から生まれたのではないかといわれています。
北条早雲は一度も北条早雲と名乗ったことがない
(出典 Wikipedia)
戦国時代の下剋上の代表的な存在として有名なのが、後北条氏の初代である北条早雲です。戦国時代は北条早雲が開いたとも、戦国時代の魁ともいわれる人物ですね。
ところがこの北条早雲は一度も北条早雲と名乗ったことはありませんでした。というのも「北条」という姓を用いたのは、息子の二代目の氏綱からだったのです。
北条早雲の当時の名乗りは伊勢宗瑞(いせのそうずい)です。宗瑞は出家してからの法名で、名前(いみな)は長氏でした。通称が新九郎で、早雲というのは庵号になります。
- 名字 伊勢
- 通称 新九郎
- 名前 長氏(盛時とも。諸説あり)
- 法名 宗瑞
- 庵号 早雲
まとめると上記のようになります。
呼び方としては伊勢宗瑞や伊勢新九郎、早雲庵宗瑞などが正しいことになり、北条早雲という呼び方は、あくまでも後世の歴史家が名付けたものになります。
筒井順慶は洞ヶ峠には行かなかった
(出典 Wikipedia)
戦国時代を由来とすることわざで「洞ヶ峠の順慶」があります。単に「洞ヶ峠」とか「洞ヶ峠を決め込む」などともいわれます。
要は、日和見をする、様子見をする、という意味なのですが、このことわざの由来は、筒井順慶の行動にありました。
明智光秀の与力だった筒井順慶は、本能寺の変のあと明智光秀に味方すべく、大和筒井城を後にします。決戦の地である山崎の南方にある洞ヶ峠まで進出しますが、そこで光秀にも秀吉にも味方をせず、傍観を決め込んだ、というのが洞ヶ峠の由来です。
ところが史実では筒井順慶は洞ヶ峠にまで進出することはありませんでした。実際に洞ヶ峠に布陣したのは明智光秀です。光秀は筒井順慶の支援を期待し、洞ヶ峠に布陣してそこで順慶の到着を待ちました。そして順慶が来ないことを悟ると、洞ヶ峠を後にして山崎に布陣したのです。
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斎藤道三は油を売っていない
(出典 Wikipedia)
油売り商人から一代で美濃の国主まで成り上がったといわれているのが斎藤道三です。蝮(マムシ)の道三、という異名でも有名ですね。
近年の調査の結果、斎藤道三の国盗りは一代ではなく、親子二代での国盗りだったことが分かってきました。
斎藤道三の親の名は松波庄五郎(一節には松波庄五郎や法蓮房)です。司馬遼太郎の国盗り物語を読んだことのある人ならピンとくると思います。以前はこの松波庄五郎は斎藤道三と同一人物だと思われていたのです。
松波庄五郎は斎藤道三の親に当たる人物で、油売りをしていたのはこの人物です。庄五郎は油売り商人を辞めて武士を志し、美濃の守護代である長井氏に士官して西村勘九郎と名乗ります。
親の代で油売り商人を辞めているのですから、息子の道三が油を売っている訳がないですね。
まとめ ー 史実ではなくても読みものとして楽しめる
歴史は変わる、とよく言われます。新しい資料の発見によって、今まで定説と思われていたものが覆されるのです。斎藤道三の親子二代の国盗りなどはその代表的な例ですね。
それでも私自身は司馬遼太郎氏の国盗り物語が大好きですし、秀吉の出世譚の一つである墨俣一夜城の話も気に入っています。
歴史は変わるものなので、ひょっとしたらあらたな資料が見つかって、実は墨俣一夜城が史実だったりするとおもしろいのでは、と考えてしまいます。
まあ、この辺りは歴史オタクの妄想的な楽しみということで(^-^)
坂本龍馬が明智光秀の子孫といわれる4つの理由を検証
坂本龍馬にまつわる伝承のひとつに、坂本龍馬は明智光秀の末裔である、というのがあります。本当かどうかは別として、戦国時代に破れた武将の末裔が幕府を倒した、というのはロマンがあっていいですね。
司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」でも主人公の坂本竜馬が、脱藩前に先祖の明智氏の墓に詣でるシーンがあります。
司馬遼太郎氏がこのことを書いているということは、史実かどうかはさておき、坂本龍馬は明智光秀の末裔である、という説は世間的には知られていたことになります。
(出展 鬼武者公式サイト)
今回は坂本龍馬の明智光秀末裔説について検証してみます。
あ、ちなみに上のアイキャッチ画像は、カプコンさんのゲーム「鬼武者」の主人公である明智左馬介です。ブログを書いている人がゲーム開発者なので、この画像を選んだだけで、本文とは関係ないことをご容赦ください(名前も一文字違いますしね)。
- 坂本龍馬が明智光秀の子孫といわれる4つの理由
- 坂本龍馬の家系図にある坂本太郎五郎とは?
- 坂本太郎五郎は明智左馬之助の庶子
- 生き残った明智家の家臣たち
- 南国市には坂本太郎五郎のお墓まで存在する
- まとめ ー それでも坂本龍馬が明智光秀の末裔なのかは分からない
坂本龍馬が明智光秀の子孫といわれる4つの理由
坂本龍馬が明智光秀の末裔といわれるのには理由があります。
- 「坂本」姓は明智光秀の居城の坂本城から
- 坂本龍馬の「亀山社中」は明智光秀の丹波亀山城から
- 坂本龍馬は明智光秀と同じ桔梗紋を用いた
- 坂本家の家系図に先祖に坂本太郎五郎と記載
それではひとつひとつ検証してみます。
坂本姓と光秀の居城の近江坂本城
明智光秀の本拠地は近江坂本城でした。坂本城から坂本姓と名付けた、というのはありそうな気がします。ところが坂本竜馬の坂本家は、当初から坂本姓を名乗った訳ではありません。
坂本家は元々は大浜(一説には才谷)という姓で、坂本龍馬の曽祖父の坂本直海が郷士の株を買い、坂本姓を名乗るようになりました。
坂本という姓も「坂のふもと」から発祥した姓で、日本各地に存在します。
亀山社中と丹波亀山城
明智光秀は近江坂本以外にも丹波一国を支配していました。その丹波の本拠地が亀山城です。
坂本龍馬が創設した亀山社中は、後に海援隊となり倒幕に大きな役割を果たします。
問題は坂本龍馬がどういう理由で亀山社中と名付けたかですが、これは場所に由来しているといわれています。亀山社中の最初の拠点は長崎の亀山であり、それに仲間や結社という意味の「社中」をくっつけてそう呼ばれました。
明智光秀と同じ桔梗紋
明智光秀が家紋として水色桔梗を用いたのは有名です。当時の家紋は黒がほとんどだったので、織田信長が明智光秀の水色桔梗をうらやましがったというエピソードも残っています。
(出展 Wikipedia)
桔梗紋は土岐一族が広く用いました。明智光秀が土岐氏の一族だったのは確実なので、光秀が使用していたのには違和感はないですね。
(出展 Wikipedia)
坂本龍馬が用いたのが「組合い角(枡)に桔梗」といわれる家紋です。中央に桔梗を配置し、周りを組合い角で囲っています。
有名な坂本龍馬の写真でも、龍馬の胸の辺りに組合い角に桔梗紋がありますね。
(出展 Wikipedia)
写真だとちょっと潰れてしまっていて分かりづらいのですが、坂本家はこの組合い角に桔梗を家紋として用いていました。
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坂本龍馬の家系図にある坂本太郎五郎とは?
さて、前述した4つの理由の最後の坂本家の家系図ついては、長くなるので別の項目として取り上げてみます。
坂本龍馬の父である坂本直足(なおたり。通称は八平)は、藩に家系図を提出しています。坂本家先祖書指出控と呼ばれる書類で、今も文化遺産オンラインにて現物を確認することができます。
戦国時代末に山城国から戦乱を逃れて土佐才谷村に来住した坂本太郎五郎にはじまり、明和八年に新規に郷士となった坂本直海~八蔵~長兵衛に至る藩での仕事の履歴が記される。
(出展 文化遺産オンライン)
坂本龍馬の父である八平が提出した書類には、家系図も記載されているのですが、残念ながらオンラインでは確認することができませんでした。
うーん。家系図らしきものがあるのですが、さすがに読み取れないですね。いずれ現物を見に行こうと考えています。
残念ながら龍馬の父の八平が提出した家系図を確認することはできないのですが、坂本家の家系図について解説してくれているサイトがあります。
家系図をみると、坂本家の先祖は戦国時代の末期に土佐の才谷村に来住した、坂本太郎五郎という人物ということになります。
坂本太郎五郎は明智左馬之助の庶子
坂本太郎五郎は明智左馬之助の庶子だったといわれています。明智左馬之助(左馬助)とは明智光秀の娘婿の明智秀満です。
明智秀満は一般的には明智光秀の従兄弟といわれていますが、出自は明確には分かっていません。
- 三宅氏説
- 明智氏説
- 遠山氏説
若い頃は三宅弥平次と名乗っていたので、三宅氏説が有力です。いずれにせよ、明智光秀の娘を娶っており、明智光秀の娘婿なのは間違いありません。そのため明智家の重臣として重要な位置にいたのは確かです。
明智秀満は1578年に光秀の娘の倫子(お倫)を妻に迎えています。秀満はその後に1582年の本能寺の変をへて、坂本城で自刃しました。このときに47歳だったといわれています。明智光秀がかなりの高齢だったことを考えれば、従兄弟の秀満が40代というのは説得力があります。
このときに妻である光秀の娘の倫子も亡くなったといわれています。
生き残った明智家の家臣たち
それを考えると坂本太郎五郎という人物は、いつ頃生まれたのでしょうか。考えられるのは明智秀満が光秀の娘の倫子と結婚する前の前妻との子どもです。
坂本城で自刃したときに40代であれば、倫子との婚姻の前に妻(側室)がいたと考えて間違いないでしょう。坂本太郎五郎が明智秀満の庶子だといわれているのも、それが所以なのかもしれません。
もう一つ問題があるとすれば、明智秀満の子どもが生き残ることができたかどうかですが、実際に生き残ったといわれている人物がいます。三宅重利という武将で、坂本城落城のあとに、貴族の勧修寺晴豊に保護されています。
坂本太郎五郎の年齢ははっきりしないのですが、仮に倫子を正室に迎える前にできた子どもだと考えると、それなりの年齢だったことも考えられます。
もし秀満と別行動を取っていたとすると、山崎の戦いのあとに生き残ったとしても不自然ではありません。実際に山崎の戦いのあとに、土佐に逃れて長宗我部元親に使えた武将が存在します。石谷文書にも登場する石谷頼辰です。
石谷家文書の石谷光政、頼辰親子と明智光秀、長宗我部元親との関係
石谷頼辰は戸次川の戦いで戦死したことは分かっているので、山崎の戦い後に土佐に逃れたことは確実です。坂本竜馬の明智光秀の末裔説をありえないという人も多いのですが、調べていると可能性としてありうるのでは、と思えてきますね。
南国市には坂本太郎五郎のお墓まで存在する
(出展 南国市公式サイト)
さらには高知県の南国市には坂本太郎五郎のお墓も存在します。その墓には「弘治、永禄の頃の畿内の乱を避け、土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」と記載されているそうです。
南国市には坂本家の二代目彦三郎や三代目太郎左衛門の墓もあり、坂本家の先祖が坂本太郎五郎であることは間違いないようです。
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まとめ ー それでも坂本龍馬が明智光秀の末裔なのかは分からない
ここまで書いていてると、坂本龍馬が明智光秀の末裔なのは確実なのでは、と思われるかもしれません。でも、一つだけ重要な点を検証しきれていません。
それは坂本太郎五郎が本当に明智秀満の子どもなのか、という点です。明智秀満の子どもだといわれている三宅重利も確証はありませんし、坂本太郎五郎にいたっては、庶子だという伝承が残っているだけで、実際に秀満の子どもだったのかどうかは分かりません。
実は坂本太郎五郎の墓に記載されている「弘治、永禄の頃の畿内の乱を避け(以下略)」を考えると、年代が合いません。
- 弘治 1555年 - 1558年
- 永禄 1558年 - 1570年
織田信長が死んだ本能寺の変と明智光秀が破れた山崎の戦いはともに1582年です。坂本太郎五郎が「弘治、永禄(1555年 - 1570年)の畿内の乱を避けて」土佐に移住したのであれば、坂本太郎五郎は明智秀満の子孫ではないことになります。
坂本龍馬が明智光秀の末裔というのは、ロマンがあって私自身も好きな説なのですが、残念ながら本当なのかどうかは分からない、としかいいようがないようです。
二人を結びつける新しい資料でも発見されないかなあ^^
四国説が有力!?本能寺の変と四国説について再度考えてみる
本能寺の変の理由のひとつして考えられているのが四国説です。
明智光秀が織田家内で四国担当のような立ち位置にいたことから、昔から本能寺の変の理由の一つとして取り上げられてきました。ただ、怨恨説や野望説に比べて、四国説は少し弱いといわれてきました。
その理由は、他家を救うために自家を犠牲にする戦国武将は存在しないからです。ただ最近はこの四国説が有力視されています。その理由の一つが石谷家文書の存在です。
石谷家文書については以前に記事にしましたので、今回は別の側面から四国説を検証してみます。
斎藤利三と長宗我部信親の関係
以前に石谷家文書の記事であれだけ関係性について書いたにもかかわらず、重要なことを一つ下記忘れていました。
斎藤利三の妹が長宗我部元親に嫁いでいることです。
司馬遼太郎の「夏草の賦」では菜々という名前で登場する人物ですね(史実では名前は伝わっていない)。もし織田信長による四国征伐が実行に移されれば、斎藤利三は妹と甥を失うことになります。甥というのは長宗我部元親の嫡男の長宗我部信親です。
もし四国征伐の担当者が明智光秀であれば、現地の采配で何とかなったかもしれませんが、明智光秀は四国の担当を外されていました。斎藤利三としては織田家の四国征伐を阻止したかったのです。
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言継卿記に記載された斎藤利三
歴史の資料は一般的に一次史料と二次史料に分けられます。一次史料はその歴史と同じ時期に記載されたものがそれにあたります。有名なのが太田牛一による信長公記ですね。
二次史料は異なる時期に書かれた資料で、明智軍記や甲陽軍鑑などが有名です。いわゆる軍記物が多く、後年に書かれたものが大半です。
さて、一次史料として名高い言継卿記(ときつぐきょうき)に、下記のような記載があります。
「日向守内斎藤蔵助、今度謀反随一也」
日向守は明智光秀で、斎藤蔵助は斎藤利三のことです。要は言継卿記では謀反の張本人は斎藤利三だった、と断定しているのです。
推理小説的な思考で考えると・・・
少し視点を変えて推理小説的な思考で考えてみます。織田信長が死んで誰が得をするのか、という考え方です。
- 豊臣秀吉
- 徳川家康
- 長宗我部元親
- 毛利輝元
- 上杉景勝
- 北条氏直
豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と徳川家康は織田信長の死によって、結果的に領土を広げました。秀吉は柴田勝家や織田信長の息子達を蹴落として天下人へと成り上がります。
徳川家康も得をした人物といっていいでしょう。信長の死後、天正壬午の乱を経て、甲信地方を併呑し、大大名へとのし上がります。
残りの4人は織田家に攻められて、存亡の危機に陥っていたグループです。まず、この中で北条氏直は消しても良いでしょう。まだ存亡の危機というまでもなく、しかも北条家は老大国というべき存在で、中央の動きに鈍感でした。
上杉景勝は魚津城で柴田勝家と対峙していました。ただ魚津城の落城の日付を考えると上杉景勝も関与は考えられません。魚津城の落城は6月3日であり、本能寺の変の翌日だからです。もし上杉景勝が本能寺の変に関与していたなら、何が何でも魚津城はそれまで持ちこたえたでしょう。
毛利輝元は豊臣秀吉と交戦中だったこともあり可能性はある、といいたいところですが、本能寺の変のあと、吉川元春と小早川隆景の間で意見の食い違いがあったことを考えると、毛利家も可能性はなさそうです。
とすると、秀吉、家康、そして長宗我部元親の三人は可能性があるということになりますが、さて・・・
まとめ ー やっぱり気になる四国討伐の日時
やっぱり気になるのが日付です。織田信長の三男である織田信孝を大将とした織田家の四国征伐の予定日は6月2日でした。本能寺の変の当日です。
もちろん四国説だけが原因ではなく、怨恨説や様々な条件が重なって、明智光秀は行動を起こしたと思うのですが、四国説が有力な原因の一つだったことは間違いなさそうです。
義経がチンギス・ハンに。光秀は死んでなかった!?日本史の伝説10選
源義経はチンギス・ハーンになった、という伝説があります。義経は奥州平泉で死なずに生き延びて大陸に渡り、モンゴル帝国の創設者であるチンギス・ハーンになったといわれている伝説です。
この伝説は今では残念ながら俗説の一つとして扱われています。ただ俗説であっても、ちょっとしたロマンを感じます。
日本史にはそんな伝説がたくさんあります。明智光秀が死なずに徳川家康の参謀なったという説や上杉謙信女性説などは根強い人気?があります。
今回は史実かどうかは別として、戦国時代を中心に伝説的な話を集めてみました。
- 源義経は死なずに大陸でチンギス・ハーンになった
- 源義経は二人存在した
- 武蔵坊弁慶は実在しなかった
- 徳川家康は桶狭間の戦いで死んでいた
- 織田信長は日本人ではなかった
- 明智光秀は死なずに天海僧正になった
- 上杉謙信 女性説
- 豊臣秀頼は死なずに鹿児島まで落ち延びた
- 天草四郎複数人説。天草四郎は十数人いた
- 坂本龍馬は明智光秀の子孫だった
- まとめ ー 史実かどうかはわかりませんがロマンだけでも
源義経は死なずに大陸でチンギス・ハーンになった
(出典 Wikipedia)
「判官贔屓」という言葉まで生んだ、日本史上で最も人気の高い人物の一人が源義経です。その義経には死なずにチンギス・ハーンになったという伝説があります。かなり有名な伝説の一つで、Wikipediaに専用の項目まであります。
- 義経の首が鎌倉まで届くまで43日もかかり腐敗して誰だか分からなかった
- 討たれたのは義経ではなく、影武者の杉目太郎行信だった
- 義経が討たれたのは1189年、チンギス・ハーンの即位は1206年
- チンギス・ハーンは外国人だったという言い伝えが存在
- チンギス・ハーンの旗印は源氏の笹竜胆に酷似
- チンギス・ハーンは白旗を用いたが源氏も白旗
- チンギス・ハーンは小弓ではなく、義経が好んだ長弓を使用した
- 二人とも酒が飲めず、背も大きくなかった
- 国号の「元」は「源」から
- チンギス・ハーンは別名を「クロー」といった
- チンギス・ハーンはモンゴル風の革製の兜ではなく、義経と同じ鉄製の兜を使用していた
史実ではないと思いつつも、これだけ相似点があると「ひょっとして」と考えてしまいますね。
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源義経は二人存在した
(出典 Wikipedia)
これも知っている人は知っている伝説ですね。源義経は一人ではなく二人居た、という伝説です。
実際に山本義経という歴史上の人物が存在します。この山本義経は本姓が源氏なので、正式な名乗りは源義経になります。義経とまったく一緒ですね。
源義経の容姿は「平家物語」では、「ちびで出っ歯」と書かれているのですが、「義経記」には非常な美男子だったと書かれています。
この容姿の違いは源義経と山本義経が混同されたからなのかもしれません。
武蔵坊弁慶は実在しなかった
(出典 Wikipedia)
源義経の家臣で怪力無双の荒法師として有名なのが武蔵坊弁慶です。でもその武蔵坊弁慶の生涯のほとんどは残念ながら創作です。
歌舞伎の勧進帳で有名な弁慶の機転も、その最期の立ち往生も全て後から創られた話です。
では弁慶がまったく存在しなかったか、というとそうでもなく、信頼性の高い歴史資料である「吾妻鏡」に数行だけ、義経の家臣として書かれています。つまり史実では義経の家臣に武蔵坊弁慶という人物が居たようだ、くらいしか分かっていないのです。
徳川家康は桶狭間の戦いで死んでいた
(出典 Wikipedia)
戦国時代にはいくつも影武者の逸話を持つ人物が居ます。一番有名なのは甲斐の戦国大名である武田信玄でしょう。
武田信玄の場合は、弟の武田信廉(たけだ のぶかど)が信玄と容姿が似ていたため、信廉が影武者を務めたのは間違いないようです。信玄には他にも複数の影武者が居たといわれています。
徳川家康の場合は武田信玄とはちょっと違っていて、桶狭間の戦いのときに暗殺されて、それ以降は世良田二郎三郎元信という人物が徳川家康に成り代わった、という説です。
徳川家康が嫡男の松平信康を切腹させたのは、実子ではなかったからともいわれています。もし家康が桶狭間の戦いのときに死んでいたら、信康切腹のときには世良田二郎三郎元信には秀忠という実子がいたことになります。
謎といわれている徳川家の重臣である石川数正の出奔も、影武者説を採用すると理解できます。徳川家康が死んだとしても、影武者を立てることで乗り切り、いずれ家康の実子である信康が家督を継ぐのであれば、数正は徳川家にそのまま仕えていたのでしょう。
信康が世良田二郎三郎元信の指示で切腹し、秀忠が継ぐことが明確になったために数正は徳川家を去ってしまったのです。
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織田信長は日本人ではなかった
(出典 Wikipedia)
織田信長は最初は藤原氏を、その後は平氏の子孫であると名乗りました。平氏と名乗った理由は、源平交代思想を利用するためだったといわれています。室町幕府を作ったのが源氏である足利氏だったので、交代するという視点から信長は平氏を名乗ったのです。
一般的に織田氏は越前国織田荘が発祥の地で、神官の家系だったといわれています。
その織田信長ですが、実は日本人ではなかったという説があります。織田信長の先祖といわれている織田常昌という人物は、別名を忌部常昌といい、忌部氏の出身でした。
この忌部氏は古代イスラエルから渡ってきた、イスラエル人の一支族だといわれています。
だとすると、織田信長も日本人ではなかった可能性があるということになりますが、さて。
明智光秀は死なずに天海僧正になった
(出典 Wikipedia)
明智光秀は山崎の戦いで破れたあと、本拠地の坂本城に戻る最中に小栗栖で落ち武者狩りにあい、生命を落としたといわれています。
ところが小栗栖で死なずに生き延びて、家康、秀忠、家光の三代に仕えた天海僧正になった、という説があります。
- 天海が亡くなったときの諡が「慈眼」。光秀の木造と位牌があるのが「慈眼寺」
- 家康の墓所である日光に「明智平」という地名がある
- 「明智平」を名付けたのは天海。従者にその理由を聞かれたときに「明智の名を残すためさ」と答えたという逸話がある
- 徳川家光の「光」は光秀の偏諱
- 春日局は明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘
- 徳川家綱の乳母の三沢局は明智光秀の重臣の溝尾庄兵衛の縁者
明智光秀が生き延びて、徳川家康の参謀になったというのもロマンがあって良いですね。
上杉謙信 女性説
(出典 Wikipedia)
戦国時代の伝説として根強くいわれているのが上杉謙信女性説です。上杉謙信は生涯妻を娶ることはありませんでした。家督を継ぐことが重要な当時の風習から考えると、非常に珍しいといっていいでしょう。
松平忠明が記した「当代記」に「上杉謙信の死因は大虫だった」という記載があるのですが、この大虫は婦人病のことだといわれています。
また当時の越後では、謙信のことを女性だと歌った歌が存在しました。
「寅年寅月寅日に、生まれたまいし、まんとら(政虎?)様は、城山さまのおんために、赤槍立ててご出陣、男もおよばぬ体力無双」
上杉謙信は謙信は法号で、一時期は上杉政虎と名乗っていました。
織田信長は上杉謙信に「源氏物語屏風」を贈ったといわれていますが、これは当時は男性が女性にプレゼントするものでした。
豊臣秀頼は死なずに鹿児島まで落ち延びた
(出典 Wikipedia)
大阪夏の陣でなくなった豊臣秀吉の息子の豊臣秀頼ですが、大坂城では死なずに鹿児島まで落ち延びたという伝説があります。
豊臣秀頼は母である淀殿や大野治長らと一緒に自害したといわれていますが、その最期を目撃した人物は存在しません。そして遺体も見つかることはありませんでした。
鹿児島県鹿児島市下福元町に、豊臣秀頼のものと伝えられる墓が実在します。豊臣氏の一族である九州豊後日出藩藩主の木下延俊が、秀頼の逃亡を手助けしたともいわれています。
木下延俊の四男は木下延由という人物ですが、この人物は豊臣秀頼の庶子である豊臣国松だったという説もあります。
天草四郎複数人説。天草四郎は十数人いた
江戸時代の最大の農民反乱である島原の乱の指導者である天草四郎時貞は、一人ではなく複数人居たという説があります。
島原の乱の舞台となった原城が焼け落ちたあと、幕府の要人が天草四郎の遺体を探すと、十数人見つかったといわれています。つまり天草四郎は一人ではなく、複数でグループとして反乱軍をまとめていたのです。
天草四郎時貞はカリスマ的存在で、実質的な乱の指導者は有家監物ら浪人衆でした。3万7千人ともいわれた一揆軍をまとめるために、複数の少年に天草四郎時貞を名乗らせたのかもしれません。
ちなみに天草四郎時貞には豊臣家の落胤説もあり「豊臣秀綱」というそれっぽい名前まであるのですが、そこまではさすがに行き過ぎでしょうか。
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坂本龍馬は明智光秀の子孫だった
戦国時代からずっと下って幕末の坂本龍馬ですが、明智光秀の子孫だったという説があります。
- 坂本龍馬の坂本は明智光秀の坂本城から
- 坂本家の家紋は明智光秀と同じ桔梗紋
- 坂本龍馬が設立した亀山社中は明智光秀の拠点である亀山城から
- 龍馬自身が自分は明智光秀の子孫だとよく話していた
坂本龍馬は明智光秀の女婿である明智秀満の庶子、太郎五郎の末裔だといわれています。
まとめ ー 史実かどうかはわかりませんがロマンだけでも
ここに挙げた日本史上の伝説はあくまでも伝説であって、史実かどうかは分かりません。いくつかの相似点などがそれっぽく思えるだけというのが大半でしょう。
そして実際には残念ながら明確に否定されている伝説がほとんどだったりします。まあ、だから伝説なのですが。
それでもちょっとしたロマンとして、話のネタくらいには楽しんでもいいと思います。
源義経が生き延びてチンギス・ハーンになった、というのは荒唐無稽な話ですが、それでもロマンを感じるのですがいかがでしょうか^^
石谷家文書の石谷光政、頼辰親子と明智光秀、長宗我部元親との関係
本能寺の変の理由のひとつして挙げられるのが四国説です。大雑把にいうと、織田信長による四国征伐を阻むために、明智光秀が本能寺の変を起こした、というのが四国説の概要です。
この四国説は古くから本能寺の変の原因の一つとして考えられてきました。ただ、説としては弱いといわれていたのですが、近年はこの四国説が注目を浴びています。その理由は石谷家文書(いしがいけもんじょ)と呼ばれる石谷家に伝わる手紙が、平成26年に林原美術館と岡山県立博物館で発表されたからです。
石谷家文書とは林原美術館に保管されていた、石谷家親子や縁戚である斎藤家宛に送付された複数の手紙を指します。林原美術館を創設した、実業家の林原一郎氏によって収集されたものだといわれています。
石谷家文書は長く林原美術館に保管されていたのですが、近年の研究によって重要な手紙が多数含まれていることがわかってきました。
- 石谷光政、頼辰親子と明智光秀と長宗我部元親の関係
- 明智光秀と長宗我部元親に仕えた石谷頼辰
- 石谷家文書の中に本能寺の変に関連する手紙は・・・
- 気になるのは織田信長の四国討伐の日付
- まとめ ー 今後、あらたな資料が発見されれば歴史が変わるかも
石谷光政、頼辰親子と明智光秀と長宗我部元親の関係
石谷家文書とは、各地の戦国大名やあるいは公家から石谷家や石谷家と関係の深い斎藤家に送られた手紙を保管したものです。
受け取ったの石谷頼辰もしくは石谷光政だといわれています。この二人が明智光秀、長宗我部元親とどういう関係だったのかを解説します。
石谷頼辰は石谷光政の養子
石谷頼辰は石谷光政の実子ではなく養子にあたります。石谷光政の娘と結婚し、石谷氏を名乗りました。
石谷氏は奉公衆として、足利幕府の第十三代将軍足利義輝に仕えています。
石谷頼辰は斎藤利三の兄
石谷頼辰は石谷光政の娘と結婚して石谷氏を名乗る前は、斎藤孫三郎と名乗っていました。明智光秀の侍大将である斎藤利三の兄にあたります。
石谷頼辰と斎藤利三は明智光秀の家臣
石谷頼辰が足利義昭に仕えていたかは明確な資料が残されていないのですが、義昭が織田信長によって京から追い出された時期に明智光秀に仕えています。弟である斎藤利三の紹介があったのかもしれません。
そして長宗我部家と織田家との関係が悪化すると、明智光秀の使者として長宗我部家に使いをしています。
長宗我部元親の正室は石谷光政の娘
長宗我部元親は石谷光政の娘を娶っていました。石谷頼辰とは義兄弟になりますね。そして石谷頼辰の実の弟が前述した斎藤利三です。
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明智光秀と長宗我部元親に仕えた石谷頼辰
明智光秀と石谷光政・頼辰親子、長宗我部元親の関係を略図にしてみました。四国討伐を計画していた織田信長を、阻止するために明智光秀が動いた可能性が信憑性を帯びてきますね。
石谷頼辰は、
- 足利義輝
- 明智光秀
- 長宗我部元親
の三人に仕えています。
明智光秀には実弟の斎藤利三が仕えていましたし、長宗我部元親とは義理の兄に当たる関係でもあります。
長宗我部元親は石谷頼辰を嫡男である長宗我部信親付きの家老としています。そして石谷頼辰の娘を長宗我部信親の正室に迎えていました(石谷頼辰の娘はマンガのセンゴク権兵衛の11巻では計羅(けいら)という名前で登場します。名前は著者の創作かも)。
長宗我部元親は石谷頼辰をかなり深く信頼していたことが伺えます。
残念ながら石谷頼辰は長宗我部信親とともに戸次川の戦いで戦死してしまうのですが、もし生き残っていたら、本能寺の変の謎の一端が解けたかもしれません。
石谷家文書の中に本能寺の変に関連する手紙は・・・
石谷家文書の差出人は数多く、
- 近衛前久
- 長宗我部元親
- 斎藤利三
- 三好長慶
- 小早川隆景
など十数人に及びます。
ここから本能寺の変に関する文章が発見・・・はされていません(^^;
石谷家文書として全47通の手紙が保管されているのですが、そのうち長宗我部元親本人からの手紙も4通含まれています。長宗我部元親が石谷頼辰と密接にやり取りしていることは判明しても、残念ながら本能寺の変に繋がるような直接的な手紙は含まれていなかったたのです。
気になるのは織田信長の四国討伐の日付
織田信長は四国討伐を計画していました。実際に四国討伐の総大将を三男である織田信孝とし、副将(実質的な討伐軍の指揮命令者)に次席家老の丹羽長秀を据えていました。
織田信長の四国討伐について、時系列に出来事を記載します。
- 1582年5月7日 四国分国令の朱印状を発行
- 1582年5月21日 長宗我部元親が斎藤利三宛に手紙(石谷家文書)
- 1582年5月29日 織田信孝が摂津住吉に着陣
- 1582年6月2日 織田信孝軍、四国渡海予定日
長宗我部元親が斎藤利三宛に書いた手紙が石谷家文書として残されています。
その中身は、
- 信長の命に従って阿波国の一宮城、夷山城、畠山城などから撤退していること
- 土佐の入り口に近い海部城、大西城は保持したいこと
- 信長が甲州征伐から戻ったら同心したいこと
などでした。
これだけを読むと長宗我部元親は織田信長に臣従するつもりであり、明智光秀が長宗我部元親を救うために信長を倒す理由がなくなります。
ただ日付を考えると、明智光秀はこの手紙の存在を知らなかったと考えられます。そして信孝を総大将とする四国討伐軍の渡海予定日は6月2日でした。
本能寺の変の当日ですね。
まとめ ー 今後、あらたな資料が発見されれば歴史が変わるかも
足利将軍家、明智光秀そして長宗我部元親の三家に仕えた石谷頼辰は、本能寺の変に大きく関係してそうな気がします。
もちろん明智光秀が長宗我部元親を救うためだけに本能寺の変を起こしたとは考えにくいのですが、光秀の家臣である斎藤利三、石谷頼辰兄弟と長宗我部元親との関係が、本能寺の変を起こす理由の一つだったことは可能性が高そうです。
明智光秀の息子といわれる明智光慶、自然丸、乙寿丸について調べてみた
2020年の大河ドラマが明智光秀が主人公であることもあり、光秀好きの歴史オタクとして一人で盛り上がっています。先週末も図書館で明智光秀関連の本を読み漁っていたのですが、その中に明智光秀の子どもについて言及した本がありました。
明智光秀の子孫については以前に記事にしたことがあったのですが、その時に作成した光秀に三男四女がいたというのは「明智軍記」という軍記物に記載があります。
荒木村重の嫡男、荒木村次に嫁いだ娘は、荒木村重の謀反後に明智秀満に再嫁しています。明智秀満は通称が左馬助で、ゲーム好きな方にはカプコンさんの「鬼武者」シリーズの主人公でも知られています。
少し話が脱線しました(^^;
書きたいのは娘ではなく、3人居たといわれている息子についてです。今回は明智光秀の3人の息子について、気になることをつらつらと書いてみます。
存在が唯一確認されている嫡男 明智光慶
明智光秀の男児として、存在が確実視されているのが嫡男の明智光慶です。通称は十五郎もしくは十兵衛ともいわれています。
明智光慶は愛宕百韻で結句を詠んだといわれており、本能寺の変のあとに光秀が細川忠興に送った手紙にも光慶が登場します。
本能寺の変のあと、明智光秀の与力的な立場にあった細川藤孝ですが、光秀に味方することはありませんでした。
光秀は説得のために、
「信長を討ったのは天下を取るためではない。乱が落ち着いたら与一郎殿と十五郎に政権を譲りたい」という意味の手紙を書いています。この手紙に登場する与一郎は細川忠興のことであり、十五郎は明智光慶と考えて間違いないでしょう。
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明智光秀の次男? 十次郎こと自然丸
明智光秀には複数の男児が居たといわれています。次男だといわれているのが、
- 十次郎
- 自然丸
- 明智光泰
といわれている人物です。
教養人だった明智光秀は何度か連歌に参加しており、そのときに息子を連れてきたのか、天正2年と天正9年に開かれた連歌会に明智自然丸の名前があります。長男の明智光慶とは名乗りが明らかに違うことから、次男は存在していた可能性が高いようです。
本史を書いたルイス・フロイスも、本能寺の変のあとに、
- 坂本城で明智光秀の二子が死んだ
- 長子は13歳
- 二人の容姿はヨーロッパの王侯貴族のようだった
と記載しています。
そうすると、少なくとも明智光秀には二人の男児がいたことになりますね。問題はこの二子が誰かということなのですが、竹中重門が書いた「豊鏡」という書物によると、このときに亡くなった長子は自然丸だといわれています。
豊鏡の記述が正しく、坂本城で亡くなった二子のうち長子が明智自然丸であれば、明智光秀には3人の男児が居たことになります。
明智乙寿丸 存在が確認できない第三子
明智乙寿丸については、色々と調べてみたのですが、存在を確認できた資料はないようです。明智軍記にその名前はあるのですが、明智軍記はあくまでも軍記物なので、信頼性はあまり高くありません。
やはり気になるのは本能寺の変のときに、坂本城で亡くなった二子が誰かということですね。
本能寺の変のあと、宣教師のオルガンティノが、坂本で通行証を「明智の子」からもらったといわれています。豊鏡の記述を信じるのであれば、この「明智の子」は明智自然丸ということになり、やはり明智光秀には嫡男明智光慶以外に二人の男児が居たと考えて良さそうです。
まとめ ー 明智光秀には少なくとも2人以上の男児がいた
3人説をまとめると下記のような形でしょうか。
坂本城の二子・・・自然丸(豊鏡に記載あり)と乙寿丸?
明智光慶・・・亀山城に滞在?(明智軍記の記載あり)
2人説をまとめると軍記物である明智軍記の記載を除外することになります。
坂本城の二子・・・明智光慶と自然丸(豊鏡に記載あり)
色々と読み漁った書籍の情報をつなげて見ると、明智光秀には2人以上の男児が居たと考えて良さそうです。3人居たかどうかまでは残念ながら確信が持てませんでした。
仮に明智光秀に3人の男児が居たとしても、残念ながら3人とも本能寺の変のあとに亡くなっています(諸説あり)。
歴史小説などでは明智光慶が生き延びて、南光坊天海になったりするものもあったりするのですが、これは小説として楽しむのが良さそうですね。
浅井長政で有名な浅井氏の読みは「あざい」なのか「あさい」なのか?
戦国時代に織田信長の妹婿になり、のちに反旗を翻した浅井長政という武将がいます。歴史小説を読まれる方や、信長の野望シリーズをプレイする人にはもう紹介するまでもない有名武将でしょう。
学校の日本史の授業では、姉川の戦いで織田軍の敵として登場するくらいでしょうか。
その浅井長政ですが、名前の読み方が
- あざい ながまさ
- あさい ながまさ
のどちらなのか分かっていません。
個人的には濁らない「あさい ながまさ」の方が好きなのですが、最近では「あざい ながまさ」という読みの方をよく耳にします。
ずっと気になっていたので、どちらの読みが正しいのか調べてみました。
浅井長政を簡単に紹介
(出典 Wikipedia)
読みについて検討する前に、浅井長政を簡単に紹介します。
近江の浅井氏は元々は京極氏の家臣でした。長政の祖父である浅井亮政が傑物で、それまで京極氏の被官に過ぎなかった浅井氏を、北近江を支配するまでに勢力を拡大します。
亮政の嫡男である浅井久政は凡庸な人物でしたが、その久政の嫡男である長政は武勇に優れ、野良田の戦いで南近江の六角承禎の軍勢に勝利します。このときに六角軍は浅井軍の二倍の軍勢でしたが、長政は見事に六角軍を打ち破ったのです。
長政の武勇に目を付けた織田信長は、政略結婚で妹のお市を嫁がせました。
長政は信長の上洛に協力するなど、織田の同盟軍として活躍します。ただ浅井氏は越前の朝倉氏とも攻守同盟を結んでいました。織田軍が朝倉氏を攻めたことにより、長政は信長との同盟を破棄し、敵対する道を選びます。
姉川の戦いで織田軍に破れた浅井朝倉軍は、小谷城の戦いを経て滅亡への道をたどります。長政も妻のお市と3人の娘(浅井三姉妹。茶々、お初、お江)を信長に送り届けたあとは、自害して29歳の人生を閉じます。
浅井氏の読みを「あざい」とする説
さて、本題の「あざい」か「あさい」か問題ですが、最近は浅井氏を「あざい」と呼ぶことが一般的になりつつあります。2011年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」でも浅井氏を「あざい」と読んでいました。
その理由は概ね二つあるようです。
- 滋賀県にある地名浅井郡の読みが「あざい」であること
- 「節用集」にという室町時代に成立した国語辞典に「あざい」と記載されていること
浅井郡という地名は以前は存在していたのですが、平成22年に長浜市に合併したことで郡としては消えてしまったようです。浅井町もあったそうですが、郡も町も読みは「あざい」だったといわれています。
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浅井氏の読みを「あさい」とする説
浅井氏の読みは「あさい」が正しいとする説も根強くあります。
- 節用集では朝倉氏も「あざくら」と読んでいる
- 「浅い」という文字を「あざい」と濁って読むことはない
長浜市と合併しても、現地には「浅井」と名がつく地名や建物があります。そのほとんどが「あざい」と読むのですが、一部は「あさい」と呼ばれているケースもあります。
そして「あざい」と呼ばれている地名であっても、昔から「あざい」と呼ばれていたかどうかは判明していないそうです。
ちなみに「浅」という文字が付く姓のほとんどで濁点がつくことはありません。
- 浅海 (あさみ、あさうみ)
- 浅浦 (あさうら)
- 浅子 (あさこ)
- 浅田 (あさだ)
- 浅野 (あさの)
- 浅生 (あそう)
苗字の成り立ちを考えると「浅」は「浅い」という意味で深さがないことを表し、後に続く文字は「井戸」や「海」や「田」などの地形を表すことが多いようです。それを考えると「浅井」を「あざい」と読むことはありえないことになりますね。
浅井という苗字が付く有名人を調べてみた
浅井という苗字を持つ有名人は何名かおられます。Wikipediaに掲載されている「浅井」さんを集めてみました。
- 浅井 恵倫(あさい えりん) 言語学者
- 浅井 忠(あさい ちゅう) 洋画家
- 浅井 慎平(あさい しんぺい) 写真家
- 浅井 信雄(あさい のぶお) ジャーナリスト
- 浅井 基文(あさい もとふみ) 元外交官。政治学者
- 浅井 健一(あさい けんいち) ミュージシャン
- 浅井 清己(あさい きよみ) 声優
- 浅井 樹(あさい いつき) 元プロ野球選手(広島)
- 浅井 良(あさい りょう) 元プロ野球選手(阪神)
- 浅井 康太(あさい こうた) 競輪選手
- 浅井 真紀(あさい まさき) フュギュア原型師
- 浅井 裕華(あさい ゆうか) 芸能人。SKE48メンバー
※掲載にあたり敬称は省略させていただきました。
現代の浅井さんは「あざい」ではなく「あさい」さんと呼ぶようです。そういえば阪神にも浅井良選手が在籍していました。捕手としてよりも、代打での登場でパンチの聞いた打撃が印象的だった記憶があります。
浅井長政の銅像はどこにある?
(出典 Wikipedia)
全国で浅井という姓を持つ方は約8万人おられるようです。滋賀はもちろん大阪や東京、北海道にも浅井姓の方はおられるのですが、一番多いのは愛知県だそうです。そして浅井長政の銅像も愛知県春日井市の間内駅前に設置されています。
この銅像は浅井長政の子孫の方が建てられたそうです。
浅井長政には正妻の市以外にも八重の方という側室がいたといわれています。その八重の方との間に生まれた七郎が難を逃れてこの地に移り住み、数えて11代目の子孫の方が浅井長政像を建造したそうです。
この方の名前の読みが「あさい」なのか「あざい」なのか気になります。子孫の方の読みがどちらか分かれば、それで確定という気がします。
ただ、愛知県には浅井神社(あざいじんじゃ)という古くから存在する神社があります。浅井政貞、浅井長時という近江系浅井氏とは異なる尾張系浅井氏も存在するので、浅井長政の子孫なのかどうかは正直なところ微妙な感じがします。
まとめ ー 好きな方の読みで良い
結局はどちらが正しいのかは分かりませんでした(^^;
戦国時代の文章にルビが振られていれば良いのですが、もちろんこの時代に濁点はありません。濁点が正式に使われるようになったのは昭和に入ってからなので、実際のところ「あざい」なのか「あさい」なのかは判断がつけがたいのです。
なので、好きな方の読みで良い、というまとめで良いのではないでしょうか。
個人的には「あさい ながまさ」の方が好きですねー。