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戦国時代最強といわれた上杉謙信が天下を取れなかった理由

戦国時代に最強といわれた武将が越後の上杉謙信です。以前に上杉謙信が登場する小説の書評でも紹介しましたが、戦って負けたことがほとんどなく、その強さは神がかり的ともいえます。

 

自らを毘沙門天の化身と信じ、生涯不犯を貫き通した「軍神」なので、神がかっているのも、本人が願った結果なのかもしれません。

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戦国時代最強といってもいいほどの強さを誇った謙信ですが、天下を取ることはありませんでした。二度も上京していることもあり、天下への野心は持っていたと思うのですが、武田信玄のように西上作戦を起こすこともありませんでした。

 

抜群の強さを誇った上杉謙信

上杉謙信が戦った結果を成績にまとめると、

  • 61勝2敗8分

になり、戦国武将としては最高の成績といっていいでしょう。上杉謙信のライバルといわれる武田信玄よりも成績は上回ります。

 

もちろん織田信長よりも成績ははるかに上で、織田軍を手取川の戦いで破っています。もっともこのときの相手は織田信長ではなく、織田軍の北陸方面の司令官である柴田勝家の軍勢でした。

 

手取川の戦いでの上杉謙信の軍勢は8,000人(一説には2万人)で、織田軍は3万(一説には4万)だったそうです。相手の半分に満たない戦力で織田軍を破ったことから、「上杉におうては織田も手取川、跳ねる謙信、逃げるとぶ長」という狂歌が歌われたといわれています。

 

領土を比較してみると信長よりも遥かに少ない

川中島の戦いで武田信玄と引き分け、手取川の戦いで織田信長の軍勢を破った上杉謙信ですが、結果をみれば越後を中心に上野、越中、能登などを領地として、その総石高は約150万石程度でした。

 

もちろんこれでも大大名といっていいのですが、最強といわれるほど強かった割には領土が広がっていません。これは上杉謙信が領土を広げるために戦をしたのではなく、上杉家(山内上杉氏)に頼まれて出兵したり、親戚である北信濃の豪族を助けるために兵を出したりしていたからでした。

 

有名な川中島の戦いも親戚である高梨政頼を助けるためで、何度も武田信玄と戦った割には領土は獲得できていません。

 

織田信長と比較してみるとその差は歴然としています。

上杉謙信 約150万石

  • 越後
  • 越中
  • 佐渡
  • 能登
  • 上野
  • 加賀の一部
  • 北信濃

織田信長 約380万石

  • 尾張
  • 美濃
  • 近江
  • 伊勢
  • 伊賀
  • 越前
  • 若狭
  • 山城
  • 大和
  • 紀伊
  • 和泉
  • 河内
  • 飛騨
  • 丹波の一部
  • 播磨の一部

上杉謙信の最大版図である1578年頃の比較ですが、信長は謙信を上回る領土を手に入れています。このときに上杉謙信は48歳、織田信長は44歳です。もちろんとりまく状況が違うので、簡単には比較できませんが、領土拡大において謙信は信長より劣っていたといえるでしょう。

 

いや、正確には、謙信は領土拡大のための戦をしなかったのかもしれません。

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軍勢の進行方向が定まっていない

上杉謙信が兵を出した方向も、

  • 関東 43
  • 信濃 6
  • 北陸 17

と統一されていませんでした。

 

助けを求められれば、手を差し出す義の武将ともいえるのですが、そのために神がかり的な強さを持ちながら、領土がそれほど広がらず、天下を取れなかったのかもしれません。

 

まとめ ー 謙信がもう少し長生きしていれば

上杉謙信は1578年に脳溢血で亡くなりますが、その直前に動員令を出しています。かなり大掛かりな動員令であり、上洛のためであったともいわれています。

 

もし謙信がもう少し長生きしていれば、歴史は変わったかもしれないのですが、これはいつもの歴史オタクのタラレバということで(^^;

 

川中島の戦いで上杉謙信と武田信玄の一騎打ちは本当にあったのかどうか

越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄の間で繰り広げられた川中島の戦いで、有名なのが第四次川中島の戦いの両者による一騎打ちです。

 

歴史ドラマや小説などでは、必ずといっていいほど取り上げられるこの一騎打ちですが、実際にあったのかどうかは定かではありません。その理由はこの一騎打ちが明確に書かれているのは「甲陽軍鑑」という軍学書だけだからです。

 

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第四次川中島の戦いの簡単な解説

上杉謙信と武田信玄の間で行われた川中島の戦いは、一度では終わらず数度に渡って繰り広げられました。中でも激戦だったのが第四次川中島の戦いです。

 

この戦いでも結果は引き分けだったのですが、前半は上杉軍が優勢で、後半は武田軍の別働隊が到着したこともあり、形成は逆転しました。

 

このときに上杉軍の総大将である謙信自らが、武田信玄の本陣に切り込み、信玄に太刀を振るったといわれています。信玄はとっさのことで刀を抜く暇がなく、手に持った軍配で三度、刀を受け止めました。

 

甲陽軍鑑には、

「三刀伐奉る。信玄公たつて、軍配団扇にてうけなさる。後みれば、うちはに八刀瑕あり」

と記載されています。

 

意訳すると、

刀を振るわれ、信玄公は立って手に持った軍配で受けた。あとから確認すると軍配には8つもの刀傷があった。

という感じでしょうか。

 

そして太刀を振るった武者が、後ほど上杉謙信だと判明した、と記載されています。

 

これだけをみると、一騎打ちはあった、となるのですが、問題は甲陽軍鑑という軍学書の成り立ちです。

 

甲陽軍鑑だけでは真偽の判断が難しい

甲陽軍鑑は武田四天王の一人、高坂弾正昌信(春日虎綱)の原本を小幡勘兵衛景憲がまとめたものといわれています。

 

四天王の一人である高坂弾正が書いたものなら信頼性は高いのでは、と思うかもしれませんが、小幡景憲による追記や創作が多く、他の書籍との食い違いもいくつか指摘されています。それもあって歴史研究家からは信頼性が低いといわれている書籍でもあります。

 

では他に一騎打ちが記載されている書籍はあるのでしょうか。

 

実は複数存在します。そのうちの一つが関白近衛前久が上杉謙信に送った手紙です。この手紙は一次資料として名高いのですが、その手紙に謙信自身が太刀を振るったことが記載されています。ただ残念ながら相手が誰だったのか記載がありません。

 

もう一つは上杉家が編纂した上杉家御年譜という資料です。この資料にも一騎打ちの記載があるのですが、斬りかかったのは上杉謙信ではなく家臣の荒川伊豆守になっています。ただ上杉家御年譜も江戸元禄時代の成立なので、信頼性はそれほど高くはありません。

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大将が単騎突出し、太刀を振るうことがあるのか

資料だけでは判断が難しいので、戦国時代に大将が単騎で敵に突出し、太刀を振るうことがあるのかを考えてみます。

 

常識的に考えるとこれはありません。大将の戦死が戦いの敗北に直結する以上、敵陣に単騎で突っ込むことはほぼないといっていいでしょう。ただ、ここで考えないといけないのが上杉謙信の性格です。

 

上杉謙信は武田信玄のように、床几に座って本陣にどっしりと構えるタイプではありませんでした。常に馬上で長剣を持ち、前線で指揮を執ったといわれています。謙信自身は毘沙門天の加護を信じており、他の戦いでも自分の身を平然と敵の銃が届く範囲まで晒すということをしています。

 

そして何よりも、一次資料である近衛前久の手紙が、謙信自身が太刀を振るうような戦いであったことを証明しています。

 

まとめ ー 謙信が太刀を振るい、信玄は太刀を受けた

最後に要点を整理しておきます。

  • 上杉謙信自身が太刀を振るい、相手の武将に怪我を負わせた
  • 武田信玄が相手の武者から直接攻撃を受けた

確実なのは上記になります。武田信玄に斬りかかった武者が上杉謙信だったのかどうかは分かりません。甲陽軍鑑でも、斬りかかった武将が誰かは分からず、あとから上杉謙信だと判明したと記載されています。

 

上杉家御年譜には荒川伊豆守と記載されていますが、この人物はほぼこの時にしか登場せず、その後の消息も分かっていません。

 

一騎打ちが本当にあったかどうかは結論が出せないのですが、歴史オタクとしては、史実だと考えたいところです。

 

だってその方が、ロマンがあっていいじゃないですか^^

歴史上もっとも悲惨な死に方をした将軍「源頼家」について語る

源頼朝や源義経はご存知の方も多いと思いますが、源頼家というと何をした人なのかパッと出てこない人も多いでしょう。

 

源頼家は鎌倉幕府の第2代将軍です。父親は鎌倉幕府を開いた源頼朝、母親は尼将軍と呼ばれた北条政子です。

 

そして日本史上でもっとも悲惨な死に方をした将軍でもあります。

 

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(出典 Wikipedia)

源頼朝と北条政子を両親に持ちながら、なぜ悲惨な死に方をすることになったのかを、一人の歴史好きが好き勝手に書いてみます。

 

源頼朝の後継者として家督を継ぐ

1199年に源頼朝の急死をうけて、源頼家は18歳で家督を継承します。ところがその三ヶ月後には、有力御家人を中心とする合議制がしかれます。

 

早い話が、権力がトップの源頼家ではなく、部下である御家人たちに握られてしまうのです。

 

1202年には征夷大将軍を宣下され、第2代将軍の座につきます。ただその頃には源頼家の忠臣だった梶原景時が失脚し(梶原景時の変)、将軍になったとはいえ、不安定な政権でした。

 

後ろ盾に比企氏を選んだことで北条氏と対立

源頼家の母親は冒頭でも書いたように北条政子です。北条氏は当時から有力な御家人だったのですが、源頼家はその北条氏に頼ろうとせず、妻の実家である比企氏を後ろ盾にしようとしました。

 

1203年に源頼家は体調を崩したことから、自身が持つ関東の地頭職を弟の千幡(後の源実朝)と嫡男の一幡に譲渡しようとします。ところが比企氏の棟梁である比企能員(ひきよしかず)が、その分配に不満を示します。

 

この時点で弟の千幡(源実朝)は北条方に属していました。比企能員は娘である若狭局が生んだ一幡に、全ての権力を継承させたかったのでしょう。比企能員は北条氏追討を源頼家に直訴し、頼家はこれを「許諾」してしまいます(諸説あり)。

 

これに激怒したのが、実母の北条政子とその父である北条時政でした。

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修善寺で悲惨な最後を遂げる

その後、比企能員は北条時政におびき出されて殺害されます。そして比企氏一族も反抗したものの、源頼家の嫡男である一幡もろともに誅殺されてしまいます。

 

比企能員が謀殺された聞いたときに、源頼家は激怒し、北条時政を追討するように指示しましたが、誰も従うものは居なかったといわれています。

 

梶原景時、比企能員と忠臣を失った頼家は、家督を弟である千幡(源実朝)に譲らざるを得なくなります。

 

失意の源頼家は伊豆の修善寺に押し込められ、その地で北条氏に暗殺されます。

 

その最期は、

「頸ニヲヲツケ、フグリヲ取ナドシテコロシテケリ」

という悲惨なものでした。

 

頸ニヲヲツケというのは、首にヲ(緒)を巻き付けられたのですから、縊り殺されたと考えていいでしょう。フグリというのは陰嚢のことですね。そしてその陰嚢を「取(トリ)ナドシテ・・・」

 

男性であれば、背中がヒュンっと寒くなるような恐怖感を感じてしまうのではないでしょうか。

 

まとめ ー 恐るべきは北条政子

源頼家は前述したように悲惨な最期を遂げました。実家の北条氏に頼らず、なぜ妻の実家である比企氏に頼ったのかは、歴史小説から知識を得ている私には分かりません。

 

それにしても恐るべきは、北条氏の勢力を維持しようと動いた北条政子ですね。源頼家は実子であり、一幡は孫になりますが、それを誅殺してしまうのですから。

 

一説によると、源頼家と比企能員の密談を、北条政子が障子の裏で聞いていたともいわれています。源頼家も実の母が自身を滅亡に追いやるとは考えていなかったのかもしれません。

 

そんな北条政子といちゃいちゃできるゲームがあるらしいのですが、それについてはコバろぐさんに詳しいので、そちらにどうぞ^^

 

 

朝倉宗滴 朝倉家四代に仕えて朝倉家の最盛期を築いた知られざる武将

本棚にあった「大戦国史」という本を眺めていたら、知られざる名将として朝倉宗滴(そうてき)について書かれたコラムがありました。朝倉宗滴は戦国時代好きな人であれば、朝倉家を支えた名将としてご存知だと思います。

 

ただ、興味のない人にとっては知られざる武将になるのでしょうね。日本史でも習うのは、浅井朝倉連合軍が織田信長に破れた「姉川の戦い」か、大名の統治の例として「朝倉敏景十七箇条」くらいでしょう。

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朝倉家の中興の祖である朝倉孝景の八男

朝倉宗滴は諱を教景といい朝倉孝景の八男として生まれました。朝倉孝景は同じ名前の人物が二人おり、朝倉宗滴の父親は朝倉家七代目当主の孝景です。法号から英林孝景とも呼ばれました。ちょっと前までは「朝倉敏景」と呼ばれることが多かったと思うのですが、最近は「朝倉孝景」の方が多いみたいですね。

 

朝倉孝景は非常に優れた人物で、朝倉家の中興の祖といわれました。朝倉敏景十七箇条を制定し、応仁の乱で発生したほとんどの戦いで勝利して、朝倉家の越前支配を確立しました。

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朝倉四代に仕えた実質的な朝倉家の当主

朝倉宗滴は朝倉孝景の八男として生まれ、その後の朝倉家の当主四代に使えました。

  • 朝倉氏景
  • 朝倉貞景
  • 朝倉孝景(英林孝景とは別人)
  • 朝倉義景

朝倉義景は織田信長に破れた凡庸な人物として、悪い意味で有名ですね。織田信長に破れたあと、頭蓋骨を盃にされてしまったという逸話がある人物です。

 

ただ、朝倉宗滴が生きているうちは朝倉家の支配は盤石のものでした。加賀の一向宗とから越前を守り抜き、第十二代将軍足利義晴からの要請で畿内の三好勢とも戦い、近江の新興勢力である浅井亮政を牽制し、朝倉家の最盛期を演出したといわれています。

 

九頭竜川の戦いで20万の一向宗を破る

朝倉宗滴は朝倉家の軍事、政治を実質的に統括していましたが、その最大の戦いは加賀、能登を中心とした一向宗20万(一説には30万)との戦いです。

 

九頭竜川の戦いと呼ばれたこの戦いで、朝倉宗滴は敵に夜襲を仕掛けて機先を制し、最終的に20万の軍勢を打ち破ります。朝倉宗滴が率いた軍勢は一説には1万人にも満たなかったともいわれています。ひょっとしたら日本史上最大戦力差の戦いかもしれませんね。

 

織田信長の躍進を予見していた朝倉宗滴

朝倉宗滴は当時としては驚異的な年齢である79歳で亡くなります。西暦だと1555年ですので、桶狭間の戦いの5年前ですね。

 

死の間際に「あと三年生きて、織田信長の行く末を見たかった」と言ったといわれています。朝倉宗滴は桶狭間の戦いの5年も前に、信長の実力を予見していたといえるでしょう。

 

朝倉宗滴がもう少し生きていたら、朝倉家の未来も違った・・・というのは年齢的に流石に苦しいかな(^^;

 

まとめ ー 知られざる名将は他にも

朝倉宗滴が一般的にどれくらい知名度があるのかは私には分かりません。

 

嫁さんに「織田信長には子どもがたくさんいて、代表的なとこだと信忠、信雄、信孝の三人」と話したところ「織田信長と織田信成(フィギュアスケート選手)なら知ってる」という返事でした・・・

 

朝倉宗滴は知らない人の方が多いだろうなあ。

明智光秀の子孫について調べてみた。クリス・ペプラー氏と土岐氏、明智憲三郎氏について

戦国武将の子孫に興味があります。以前に石田三成について調べてみたのですが、今回は2020年の大河ドラマの主人公にもなった明智光秀について調べてみました。

 

明智光秀の男子で存在が確実視されているのは、嫡男である十五郎光慶だけです。光慶は山崎の戦いで明智光秀が破れたあと、坂本城落城のときに明智一族とともに自害したといわれています(諸説あり)。このときに光慶は13歳(14歳説も)だったので子どもは居なかったでしょう。

 

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明智光秀には他に庶子が居たという説もあります。そして現代で明智光秀の子孫と呼ばれている方も居られます。まずはこの子孫の方々について調べてみました。

 

 

明智光秀の子孫?、クリス・ペプラー氏

クリス・ペプラー氏は祖母が土岐氏

明智光秀の子孫として有名なのがクリス・ペプラー氏です。2016年にテレビ番組の企画で、明智光秀の直系の子孫だということが判明したそうです。

 

 

クリス・ペプラー氏自身はドイツ系アメリカ人と日本人のハーフですが、母方の祖母から「あなたは明智光秀の末裔なのよ」と幼少のころにいわれていたそうです。この祖母の苗字が「土岐」だったそうなので、明智氏と関係の深い土岐氏の一族の子孫ですね。

 

この祖母の方は土岐頼勝の子孫にあたられるそうです。では、土岐頼勝と明智光秀の関係はどうなっているのでしょうか。

 

土岐氏と明智氏の関係

土岐頼勝は土岐頼次の嫡男とされています。土岐頼次の父親が斎藤道三によって岐阜を追われたことで有名な土岐氏の第十三代当主土岐頼芸ですね。

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図にしてみるまでもないのですが、土岐頼芸の孫がクリス・ペプラー氏の先祖である土岐頼勝になります。では、この土岐頼勝と明智光秀の関係を図にしてみます。

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土岐氏から分家して明智氏を名乗ったのは土岐(明智)頼重だといわれています。頼重は初代美濃守護である土岐頼貞の七男である土岐頼基の実子ですね。そこから数えて八代目に明智光秀が出ています。

 

前述したようにクリス・ペプラー氏の祖先である土岐頼勝は、最後の美濃守護である土岐頼芸の孫になります。こうしてみるとクリス・ペプラー氏は明智氏の末裔ではありません。

 

ただ明智氏の本家が土岐氏になるので、明智氏の本家の土岐氏の末裔であることは間違いないようです。

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明智光秀の子「於寉丸」の子孫、明智憲三郎氏

明智光秀の子どもに於寉丸はいた?

もうひとりの明智光秀の子孫である明智憲三郎氏は、本能寺の変について解説した書籍の著者として有名ですね。私も楽しく読ませていただきました。

 

 

さて、その明智憲三郎氏ですが明智光秀の子である於寉丸(おづるまる)の子孫だそうです。明智光秀の実子で存在が確認されているのは冒頭に書いたように十五郎光慶だけです。

 

ただそれ以外に庶子がいたという説もあります。

明智軍記には、

  • 長男 明智光慶
  • 次男 明智十次郎(光泰?)
  • 三男 明智乙寿丸

の三人の男児がいたという記述がありますが、この中に於寉丸の名はありません。

 

明智光秀に側室は居たのか?

明智於寉丸は他の側室の子だったのでしょうか。明智光秀の正室は妻木煕子ですが、側室が居たのかどうかは明確には分かっていません。明智光秀は愛妻家で側室は持たなかったという説と複数居たという説が存在します。

 

仮に側室が居たとすると、

  • 山岸光信の娘
  • 喜多村保光の娘
  • 原仙仁の娘

などが詳細が不明ながらも、説としては考えられています。於寉丸も庶子の一人なのかもしれませんが、残念ながら明智光秀の男系の子孫は不明点が多く、定説にはなっていないようです。

 

南国梵桂 明智光秀の実子といわれる人物

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(出典 Wikipedia)

明智光秀の唯一の肖像画がある本徳寺を開基したのは、南国梵桂という臨済宗の僧です。この南国梵桂は明智光秀の実子という説があります。

 

明智光秀の嫡男である明智光慶は、坂本城から逃れて京都妙心寺の住職玄琳になったという説もあります。妙心寺には明智風呂という名前の蒸し風呂があったり、明智系図という家系図も存在します。

 

南国梵桂は明智光慶であったのかはどうかは分かりませんが、本徳寺が全国で唯一の明智光秀の肖像画を所有していることを考えると、明智氏と深い関係があったことは確かなようです。

 

まとめ ー 明智氏は全国で1,200人くらい

苗字で調べると日本全国に明智姓を持つ方は1,200人くらいおられるようです。もちろん全員が明智光秀の子孫という訳ではないでしょうし、姓を変えた方も多くおられるでしょう。

 

斎藤道三の子孫の方は道三の悪名を嫌って、姓を斎藤から変えたという話もあります。明智光秀も反逆者のイメージが強いので、子孫の方で姓を変えられた方も多いのかもしれません。

 

明智光秀の子孫はひょっとしたら、今は違う姓で現代まで続いているのかもしれませんね。

 

さて、今回は明智光秀の男系の子孫について調べてみましたが、次回は女系の子孫について調べてみることにします。

明智光秀の前半生や織田信長や濃姫の関係について調べてみた

2020年の大河ドラマの主人公である明智光秀は、その前半生がほとんど分かっていません。それだけにその前半生をどう描くのか非常に楽しみでもあります。

 

今回は明智光秀の前半生や濃姫や斎藤道三との関係について少し調べてみました。調べてみたとはいっても、そこは歴史好きの素人なので、史実とは異なるところも多いとは思いますが、ちょっとしたエピソードとして楽しんでいただければ幸いです。

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斎藤道三と明智光秀と織田信長の関係

明智光秀の父は実はまだ明確には分かっていません。一派的には明智光綱ではないかといわれていますが、これは光秀の死後、100年以上も経ってから書かれた「明智軍記」という軍記物に由来しています。残念ながら信頼性はそれほど高くはありません。

 

仮に「明智軍記」の記述通り、明智光綱が光秀の父親だとすると、明智光綱の妹である小見の方が斎藤道三の正室なので、明智光秀は斎藤道三の義理の甥になります。

 

小見の方は織田信長の正室になる濃姫(帰蝶)の母親でもあるので、濃姫のいとこが明智光秀です。織田信長からみれば明智光秀は嫁さんのいとこになる訳ですね。

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斎藤道三がいった「十兵衛も何ほどのこともない」

斎藤道三は甥である明智十兵衛(光秀)が才能ある青年であることを見抜き、手塩にかけて育てていました。自分の軍略や政治などの知識を、まだ若かった明智光秀に教えていたともいわれています。

 

ところがある日、斎藤道三はもっと才能のある青年と出会いました。それが後に娘婿になる織田信長です。織田信長と初めて出会ったあと斎藤道三は、

「信長にくらべれば、十兵衛も何ほどのこともない」

といったという逸話があります。

 

甥である明智光秀を才能があると見込んで育てていたのもの、織田信長の方がもっと才能があったというエピソードです。

 

明智光秀と帰蝶(濃姫)は恋仲だった?

斎藤道三の娘で後に織田信長に嫁ぎ、濃姫と呼ばれた帰蝶は、明智光秀と恋仲だったという逸話があります。わりと有名な逸話ですね。

 

資料を探してみたのですが、実は濃姫は知名度は高いものの登場している資料が少なく、史実かどうか確認することができませんでした。

 

そこでちょっと三人の年齢を比較してみます。

  • 明智光秀 1528年生まれ(諸説あり)
  • 織田信長 1534年生まれ
  • 帰蝶(濃姫) 1535年生まれ

年齢的にはそれほど不自然ではないような気もします。織田信長と濃姫の婚姻が1549年なので、この時の年齢を記載してみると、

  • 明智光秀 22歳
  • 織田信長 16歳
  • 帰蝶(濃姫) 15歳

やっぱり光秀がちょっと年上ですね。

 

では、光秀が結婚したのは何年でしょうか。

 

調べてみると、明智光秀と妻木煕子が結婚したのが1545年頃で、光秀が18歳の頃です。このとき濃姫は11歳。つまり濃姫と信長の結婚話が進んでいるときに、光秀はもう結婚して4年経っているので、二人が恋仲だったという可能性は低そうです。

 

明智光秀と濃姫が恋仲で、それが織田信長との政略結婚で引き裂かれ、本能寺の変の遠因になった、というのもロマンスですが、話としてはちょっと苦しそうですね。

 

とても愛妻家だった明智光秀

明智光秀の妻は、前述したように妻木広忠の娘の妻木煕子という人物でした。煕子は娘である細川ガラシャが美人で有名だったように、とても美しい顔立ちだったといわれています。

 

明智光秀と妻木煕子は婚約しますが、輿入れ前に煕子が疱瘡にかかってしまいます。疱瘡にかかったことで、煕子の顔に痘痕が残ってしまいました。父親である妻木広忠は岐阜の名家である明智家との婚約が流れることを惜しみ、容姿がそっくりだった煕子の妹を代わりに光秀の妻として送り込みます。

 

光秀はすぐに身代わりに気づき、丁重に妹を送り返した上で、妻として煕子を改めて迎え入れました。光秀はその後も側室をおかず、ずっと煕子を大切にしたといわれています。

 

まとめ ー 明智光秀という武将には謎が多い

2020年の大河ドラマが明智光秀に決まってから、自分の中ではテンションが上がりっぱなしです。2年後の大河ドラマにワクワクするのも我ながら奇妙なのですが、大河ドラマの主人公には永遠にならない人物、と考えていただけに嬉しくて仕方がありません。

 

明智光秀という武将には謎が多く残っています。今回取り上げた前半生もそうですし、何といっても本能寺の変をなぜ起こしたのかが最大の謎です。

 

大河ドラマでそれが解決する訳ではないのですが、どういう描かれた方をするのか、それだけでも非常に楽しみです^^

 

ヤマカンの語源は山本勘助って知ってた? 戦国由来の言葉のまとめ

ヤマカン、という言葉があります。カンに頼って物事を決めることをそういうのですが、この言葉の語源は戦国時代の武田信玄の軍師である山本勘助だったという説があります。

 

他にも戦国時代に生まれて、今でも使われている言葉はいくつかあります。今回は私の知っている戦国由来の言葉をまとめてみました。

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ヤマカン

武田信玄の軍師といわれている山本勘助は、非常にカンがするどく、戦場での予測をよくよく言い当てたことから、物事をカンでいい当てることをヤマカンというようになったといわれています。

 

山本勘助とは別に、山師が鉱脈を掘り当てるときに、昔は勘に頼らざるを得なかったことから、山師のカンでヤマカン、という言葉が生まれたという説もあります。

 

三日天下

明智光秀が本能寺の変で織田信長を倒し、天下を取ったが長くは続かなかったことから、短期的な政権や先の短い権力者のことを三日天下というようになりました。

 

言葉としては三日天下ですが、明智光秀が実際に政権を握ったのは11日間でした。

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天王山

天下分け目の天王山、という使われ方が多いと思います。

 

明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いですが、天王山の奪取が勝敗を分けたといわれています。戦国時代の戦闘では高所を確保したほうが有利でした。羽柴秀吉の軍師である黒田官兵衛が先に天王山を確保し、それが秀吉側の勝利につながったといわれています。

 

ただ実際には天王山の確保は勝敗には影響なかったという説もあり、名称が象徴的に使われているだけかもしれませんね。

 

洞ヶ峠

山崎の戦いから由来している言葉は多いですね。

 

明智光秀の与力大名である筒井順慶は、本能寺の変の後、当然のことながら光秀に味方すると思われていました。ところが光秀に味方する大名が少ないと判断した筒井順慶は、洞ヶ峠から兵を動かさず日和見しました。

 

このことから敵味方が鮮明でない様子を「洞ヶ峠」というようになったそうです。

 

一徹者

西美濃三人衆の一人、稲葉良通の法号は一鉄であり、稲葉一鉄という名乗りでも知られています。稲葉一鉄は頑固な性格だったことから「頑固一徹」や「一徹者」という言葉が生まれました。

 

元の木阿弥

筒井順慶の父である筒井順昭は早くに亡くなったため、筒井家の家老が相談して、容姿が似ている木阿弥という僧侶を影武者に立てました。

 

嫡男である筒井順慶が成長し家督を継ぐと、木阿弥は影武者の任を解かれ、元の僧侶に戻ったことから「元の木阿弥」という言葉が生まれました。

 

小田原評定

豊臣秀吉による小田原征伐のときに、北条家の家老で意見が対立し、結局最後までまとまらなかったことから、いつまで経っても意見がまとまらない会議のことを「小田原評定」というようになったそうです。

 

三本の矢

中国地方の戦国大名である毛利元就は、亡くなるときに兄弟を枕元に呼び、

「一本の矢であれば容易く折ることができるが、三本束ねると折ることは難しい」

「兄弟三人が仲良くして、毛利家を守り立てるように」

と遺言したことから、力を合わせて物事に当たることを「三本の矢」というようになりました。

 

というのは俗説です(^^;

 

毛利元就の長男、毛利隆元は毛利元就よりも早くに亡くなっているので、上記の話は逸話ですね。実際は三人に当てて元就が書いた手紙が残されていて、そこに三本の矢の話が記載されています。

 

宰相殿の空弁当

これは日常的に使っている人を見たことはないのですが、戦国由来の言葉なので、一応紹介しておきます。

 

関ヶ原の戦いで毛利家の武将である毛利秀元は、大軍を率いて関ヶ原に陣を敷きました。ただ毛利家は毛利秀元が大将だったものの、実質的には年長者である吉川広家が指導権を握っていました。

 

毛利秀元自身は戦いに参加するつもりだったのですが、吉川広家が徳川家康に内通していたため、軍を動かすことができませんでした。そのため秀元は味方から催促があっても軍を動かすことが出来ず、やむなく催促の使者にたいして「今は弁当を使わせている」と何度も返答したことから、急場しのぎの方便のことを「宰相殿の空弁当」といわれるようになりました。

 

安倍川餅

静岡県安倍川付近が発祥といわれているお菓子で、細かく切った餅に砂糖を混ぜたきな粉をまぶして食べるのが一般的です。

 

この安倍川餅は慶長年間に、徳川家康が安倍川上流にある金山を視察したときに名付けられたといわれています。地元の人が徳川家康にこのお餅を献上したところ、徳川家康はとても気に入り、餅の名前を尋ねました。

 

 

このお餅は安倍川の金な粉もちと申します

 

 

ととっさに答えたことから、安倍川餅という名前が広がったといわれています。

 

安倍川餅の誕生に、徳川家康が関わっていたとは興味深いですね。

 

まとめ ー 400年の前の言葉が残っているのは凄い

戦国時代というと400年以上前になるのですが、その時代の言葉が残っているのは凄いと感じます。

 

三日天下は実質的には11日だったとか、三本の矢は遺言ではなかったというのはあまり知られてないのではないでしょうか。個人的にはお殿様から元の僧侶に戻った木阿弥の心境を聞いてみたいところではあります。

 

戦国由来の言葉は他にもありそうなので、見つかり次第追記するようにします。実はもっとたくさんあるかと思ったのですが、意外に少なかった(^^;