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日本史における「○○の変」と「○○の乱」の定義について調べてみた。

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Twitterで「○○の変」と「○○の乱」についてトピックが長く続いています。

 

 

「○○の変」が成功した事件、もしくはクーデター、「○○の乱」が失敗した事件という意見が多いようですが、これは本当に正しいのでしょうか。戦国ヲタとしては、これは見過ごせないと思い、調べてみました。

 

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私自身の定義は変は事件、乱は大規模な戦闘

本能寺の変の記事の末尾に私自身の見解を記載しています。

 

 

日本史における「変」というのは、暗殺や失脚などによって、政治が大きく影響を受けた事件をいいます。大規模な戦闘や内乱があった場合は「乱」という位置づけになります。

 

この文章は記憶に頼って書いたので、今回はそれが正しいのかどうか、自分で検証する意味もあります。

 

変が歴史に影響を及ぼした事件、乱は大規模な戦闘や内乱があったもの、という見解は中学時代に日本史の先生に教えてもらいました。学校の先生の話ということもあり、20年以上、ずっとその見解を信じていたので、もしそれが違っていたら、私自身はちょっとショックだったりします^^;

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日本史における変の一覧と成功したのかどうか

「○○の変」が成功したクーデターもしくは事件という見解があるのは、「本能寺の変」の影響が大きいのでしょう。

本能寺の変は、明智光秀が織田信長を自刃に追い込んだので、成功した「変」であることは間違いありません。山崎の戦いで敗れるまでの間、わずかな期間とはいえ政権を握ったのも事実です。でも、それ以外の「変」はどうでしょうか。

 

ここでは、日本史のおける「変」とつく事件を洗い出して、成功したのか失敗したのかを検証してみます。そうすれば、成功と失敗が「変」と「乱」を位置づけるものなのかどうか、答えが出るでしょう。

 

日本史における「変」の一覧

古墳時代から江戸時代末期までで「変」のつく事件を洗い出してみました。一連の事件を調べていると、「政変」と「変」とは扱いが違うのではないか、という意見もありそうなので、「政変」と呼ばれる事件は外してあります。

 

  • 587年 丁未(ていび)の変
  • 645年 乙巳(いっし)の変
  • 729年 長屋王の変
  • 810年 薬子の変(平城太上天皇の変)
  • 842年 承和の変
  • 866年 応天門の変
  • 901年 昌泰(しょうたい)の変 
  • 969年 安和の変
  • 1200年 梶原景時の変
  • 1203年 比企能員の変
  • 1224年 伊賀氏の変
  • 1324年 正中の変
  • 1443年 禁闕(きんけつ)の変
  • 1565年 永禄の変
  • 1582年 本能寺の変
  • 1651年 慶安の変
  • 1860年 桜田門外の変
  • 1862年 坂下門外の変
  • 1863年 禁門の変(蛤御門の変)
  • 1863年 天誅組の変
  • 1863年 生野の変

 

「変」と呼ばれる事件は、他に承久の変と嘉吉の変があるのですが、これらは最近では「乱」と扱われることが多いようなので、今回は外してみました。

では、この中で成功した事例はどれくらいあるのかを検証してみます。

 

成功した変と失敗した変

検証においては、ネットの情報ではなく山川出版社の日本史小辞典を参考にしました。

 

○成功
587年 丁未の変
蘇我馬子が物部守屋と争い、戦闘の末、物部守屋は射殺された。

 

○成功
645年 乙巳の変
中大兄皇子と中臣鎌足によって、蘇我入鹿が大極殿にて斬られる。

 

×失敗
729年 長屋王の変
藤原四兄弟によって、長屋王や吉備内親王らが自殺に追い込まれる。

 

×失敗
810年 薬子の変(平城太上天皇の変)
平城上皇と嵯峨天皇とが対立。敗れた平城上皇は出家。首謀者と目される藤原薬子は服毒自殺。薬子の兄の仲成は射殺された。

 

△判断が難しい
842年 承和の変
藤原良房による大伴氏(伴氏)および橘氏の排斥事件。恒貞親王が廃太子とされる。

 

△判断が難しい
866年 応天門の変
応天門の炎上をめぐる疑獄事件。藤原良房が大伴氏(伴氏。伴善男、伴中庸など)を流罪に。

 

△判断が難しい
901年 昌泰の変
藤原氏の讒言により菅原道真が太宰府に左遷される。

 

△判断が難しい
969年 安和の変
藤原氏が謀略によって源高明を失脚させる。

 

×失敗
1200年 梶原景時の変
梶原景時が源頼朝の死後、他の御家人からの弾劾を受け失脚した事件。

 

×失敗
1203年 比企能員の変
頼家の外戚である比企能員が北条時政に謀殺される。

 

×失敗
1224年 伊賀氏の変
北条政子が伊賀光宗の陰謀を未然に防ぐ。

 

×失敗
1324年 正中の変
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が事前に漏れ、失敗した事件。

 

×失敗
1443年 禁闕の変
源尊秀と皇胤を名乗る通蔵主、金蔵主の兄弟が後花園天皇の暗殺を企てた事件。

 

○成功
1565年 永禄の変
室町幕府第13代将軍の足利義輝が松永久秀および三好三人衆に暗殺される。

 

○成功
1582年 本能寺の変
織田信長が京都の本能寺で、家臣明智光秀の襲撃を受け自刃した事件。

 

×失敗
1651年 慶安の変
軍学者由井正雪が江戸幕府転覆を計画したが、事前に鎮圧された反乱未遂事件。

 

○成功
1860年 桜田門外の変
水戸・鹿児島藩士が桜田門外にて、大老井伊直弼を暗殺。

 

×失敗
1862年 坂下門外の変
尊皇攘夷派の志士が坂下門外にて、老中安藤信正を襲撃し、負傷させた事件。

 

×失敗
1863年 禁門の変
尊皇攘夷は長州藩が公武合体派の薩摩・会津藩と蛤御門周辺で武力衝突。戦闘は1日で終結した。

 

×失敗
1863年 天誅組の変
孝明天皇の大和行幸に機に、吉村寅太郎らが前侍従中山忠光を擁して挙兵した事件。

 

×失敗
1863年 生野の変
但馬国生野にて平野国臣らが、天誅組の変に呼応して挙兵した事件。

 

こうして調べてみると、失敗した事件が多いですね。もちろん私個人のバイアスが入っている可能性もありますが。

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成功した「変」

乙巳の変は大化の改新との先駆けともなった、中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿の暗殺事件です。明らかに成功した「変」といっていいでしょう。この事件により蘇我入鹿は討たれ、父親の蘇我蝦夷は自殺、蘇我氏は没落しました。

 

永禄の変は室町幕府第13代将軍の足利義輝が暗殺された事件です。足利義輝に実権があったかどうかは判断が難しいところですが、当時の将軍が部下に暗殺されたのですから、これも成功した「変」と考えて問題ないですね。

 

桜田門外の変も襲撃が成功した事例です。大老井伊直弼が水戸・鹿児島藩士の18名の襲撃を受け、斬られた事件です。井伊直弼を守っていた彦根藩の行列は60名前後いたといわれていますが、誰も井伊直弼を守ることはできず、直弼は最後は籠から引き出されて首を刎ねられました。

 

失敗した「変」

薬子の変は最近では平城太上天皇の変と呼ばれることが多いようです。平城上皇と嵯峨天皇が対立した事件ですが、主導したのは平城上皇の愛妾だった藤原薬子であることから薬子の変と呼ばれています。最終的に上皇は出家させられ、薬子は服毒自殺、薬子の兄の藤原仲成は捕まえられた後に射殺されていることから、明らかな失敗といっていいでしょう。

 

正中の変はどうみても失敗という以外の見方ができない事件です。後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が事前に六波羅探題に察知され、協力していた多治見国長は戦闘の末に討たれ、腹心である日野資朝は流罪になりました。

 

坂下門外の変は桜田門外の変の後に起こった襲撃事件ですが、桜田門外の変のあと、幕府側の警戒が厳しくなっていたことから失敗に終わりました。襲撃された安藤信正は負傷はしましたが、命に別状はなく明治維新を迎えています。

 

禁門の変、天誅組の変、生野の変は幕末に起こった尊皇攘夷派の決起事件ですが、いずれも失敗に終わっています。禁門の変は蛤御門の変とも呼ばれ、日本史の中で「変」として扱われる事件の中でも有名な事件ですね。武装した長州藩が京都の蛤御門周辺で、公武合体派と激しい戦闘を行いましたが、結局は1日で鎮圧されました。

 

判断が難しい「変」

承和の変、応天門の変、昌泰の変、安和の変は判断が難しいと感じています。この4つの事件は藤原氏による他氏族の排斥事件です。

 

例えば昌泰の変は太宰府天満宮の祭神として有名な菅原道真が左遷された事件ですが、菅原道真が当時に政府の実権を握っていたとしたら、成功した「変」と考えることもできます。権力者が左遷されたのですから、成功と考えて当然ですね。

当時の菅原道真の官職は右大臣であることから、政治の中枢にいた事は間違いありませんが、藤原時平を始め藤原氏も健在であり、菅原道真がどこまで政治の実権を握っていたのかは判断が難しいところです。

 

鎌倉時代の梶原景時の変、比企能員の変、伊賀氏の変はいずれも失敗と記載しました。変の名称にもなっている人物の視点からみれば、明らかな失敗と判断して間違いないでしょう。ただ、彼らが当時の実権を握っていて、それらに対するクーデターだったと考えれば成功と考えることもできます。

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成功した「乱」があったのかどうか

さて、それでは続いて日本史における「乱」を列挙して・・・とも考えたのですが、さすがにそれをすると3日くらい時間がかかりそうなので^^;、ここでは有名な「乱」と呼ばれる事件で成功した事例を取り上げてみます。

 

壬申の乱

672年に起きた皇位継承をめぐる内乱です。天智天皇が息子である大友皇子を太政大臣に任じて自身の後継者としましたが、皇弟である大海人皇子がそれに反旗を翻しました。

大海人皇子は序盤は劣勢でしたが、大伴氏など諸豪族を味方につけたことから、次第に勢力を挽回し、大友皇子を自決に追い込み勝利しました。その後、天武天皇として即位したことから明らかに成功した内乱といっていいでしょう。

 

元弘の乱

正中の変では失敗した後醍醐天皇ですが、その後も諦めることなく討幕活動を試みます。そして1331年から1333年にかけて行われた元弘の乱でついに鎌倉幕府を打倒し、1333年に建武の新政と呼ばれる政権を樹立します。

後醍醐天皇の一連の倒幕活動のうち、正中の変は失敗、元弘の乱は成功と考えて間違いないでしょう。

 

 

「変」と「乱」のまとめ

以上の検証から、「変」が成功した歴史事件であり、「乱」が失敗というのは明確な間違い、といって問題ないでしょう。

 

というか、これを言いたいがために、今回の検証を行ったといっても過言ではありません。

 

私自身の見解である、

日本史における「変」というのは、暗殺や失脚などによって、政治が大きく影響を受けた事件をいいます。大規模な戦闘や内乱があった場合は「乱」という位置づけになります。 

を正当化できたかは難しいところですが、概ね問題ないと考えています。

 

ちなみにこの記事は、昨日の21時から書き始めて、途中に色々と調べ物をしながら進めていたので、結局翌日の14時までかかりました。連休でないと書けない記事ですね。

 

でも自分自身でスッキリとしたので良しとします!