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真田幸村、大谷吉継、高橋紹運、吉川経家・・・様々な戦国武将の最期

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戦国武将の最期は様々です。

今回は主君や友情のために死んでいった武将についてまとめてみました。

 

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今回の記事を書くにあたり、いくつか歴史小説を参考にさせていただきました。そのため史実とは異なる可能性があることをご了承いただければ幸いです。

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遠藤直経 信長暗殺にあと一歩まで迫った浅井家の軍師

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(出典 Wikipedia)

遠藤喜右衛門直経は浅井家の軍師として活躍した人物です。

姉川の戦いで浅井朝倉軍の敗北が決定的になったあと、織田軍の鎧を着込み、戦死した味方の武将の首を持って、織田信長の本陣に乗り込みました。織田信長まであと数十メートルの距離まで迫ったのですが、相手武将に見破られて斬首されたといわれています。

 

詳しくは戦国時代の軍師について書いた記事に記載していますので、一読いただければ幸いです。

 

 

 

真田幸村 その言葉は400年を経て残った

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(出典 Wikipedia)

真田左衛門佐幸村(信繁)が大阪の冬の陣で、真田丸と呼ばれた出城を築き、活躍したことは有名です。2016年の大河ドラマにもなりました。

 

真田幸村の名セリフは、真田丸も堀もなくなった大阪夏の陣で発せられました。道明寺の戦いで真田幸村は殿を引き受け、追撃してきた伊達政宗の軍勢を撃退します。

 

引き上げるときに徳川軍の追撃が全くなかったことから、幸村は「関東100万を呼号すると云えども、一個半個の男児もおらぬか」と言ったといわれています。この言葉は、400年以上も経た今も伝わっています。

 

幸村は翌日の天王寺の戦いで、徳川家康の本陣に何度も突撃を行い、家康自身に自害を覚悟させたほどでした。

その後、数に劣る真田勢は多方面から攻撃を受け、次第に戦力を減らします。幸村も最後は松平忠直の部隊に所属する武将に討ち取られました。朝からの戦闘で既に疲労困憊だった幸村は「我の首を手柄にせよ」といって動かなかったといわれています。

 

真田幸村の戦いぶりを評した「真田日本一の兵(さなだはひのもといちのつわもの)」という言葉も後世まで語り継がれました。

 

仁科盛信 武田家の最後の砦

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(出典 Wikipedia)

武田家の滅亡が間近に迫ったとき、ほとんどの武将が抵抗せずに逃亡したり、離反したりしました。

  • 木曽義昌・・・織田軍に寝返り
  • 保科正直・・・飯田城を放棄
  • 武田信廉・・・大島城を放棄
  • 穴山信君・・・織田軍に寝返り
  • 小山田信茂・・・織田軍に寝返り

その中で武田勝頼の異母弟であり、高遠城城主の仁科五郎盛信のみが織田軍を相手に激闘を繰り広げました。織田軍を何度も撃退し、織田信長のいとこである織田信家を討ち取っています。

盛信は最後まで降伏せず、高遠城落城ととも自刃しました。26歳の若さでした。

 

盛信は領民に慕われていたらしく、盛信の遺体が埋められた山は「五郎山」と呼ばれ、その法要は現代に至っても毎年続けられています。

 

吉川経家 城兵の助命を条件に自刃した客将武将

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(出典 鳥取ArtDBProject 吉川経家公象)

鳥取城に籠城し、最後は城兵の助命嘆願を条件に切腹した吉川経家ですが、鳥取城の城主ではありませんでした。

 

鳥取城の城主は山名豊国という人物でしたが、戦いが始まると織田軍に単身で投降してしまいます。残った家臣団からの要請を受け、毛利両川の一人、吉川元春から派遣されたのが一族の吉川経家でした。

 

吉川経家は客将武将でありながらも、黒田官兵衛の策といわれる兵糧攻めに200日以上抗戦しました。最後は力尽きて、自身の切腹を条件に城兵の助命を羽柴秀吉に申し出ます。

秀吉は経家が客将武将であることを知っており、経家ではなく戦闘の継続のために経家の派遣を要請した家臣の自刃を要求しますが、経家は受け入れませんでした。

 

結局、経家は城兵の助命を条件に切腹します。

その首が届けられたときに秀吉は「哀れなる義将なり」と落涙したと伝えられています。

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鳥居強右衛門 磔にされながらも援軍の来着を叫ぶ

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(出典 Wikipedia 長篠城を脱出する鳥居強右衛門)

鳥居強右衛門は徳川家康の家臣である鳥居氏の一族だといわれていますが、出自はよく分かっていません。

というのも、鳥居強右衛門が歴史に名前を現すのは長篠の戦いだけだからです。

 

長篠の戦いの発端となった長篠城の攻防戦は、当初は武田軍が優勢でした。武田軍1万5千は長篠城を完全に包囲します。長篠城の城兵は約500であり、落城は必至の状態でした。

 

城主の奥平貞昌は、家臣である鳥居強右衛門を徳川家康への援軍要請の密使として派遣します。鳥居強右衛門は無事に包囲をくぐり抜け、徳川家康の元に到着します。そこには既に織田信長率いる3万もの軍勢が到着していました。

 

援軍が既に近くまで到着していることを知った強右衛門は、家康が止めるのもきかず、援軍到着を知らせるために再度、長篠城に戻ろうとします。

ところが、今度は包囲していた武田軍に捕まってしまいます。

 

援軍が既に到着していることを知った武田軍は、助命を条件に、

  • 援軍は到着していない
  • 降伏したほうがいい

と城方に呼びかけるように強要し、強右衛門もそれを了承しました。

 

ところが、強右衛門は実際にはまったく逆のことを叫びました。

「援軍はあと2、3日で到着する。援軍は数万の大軍である。それまでの辛抱だ!」

 

強右衛門はその場で槍で串刺しにされましたが、長篠城は強右衛門の言葉に勇気づけられ、長篠の戦いが終わるまで落城することなく持ちこたえました。

 

馬場信春 信長公記で比類なしと評された武田四天王

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(出典 Wikipedia)

武田四天王の一人である馬場美濃守信春は40数年間の間、70回以上もの戦いに参加しましたが、かすり傷一つ負うことがありませんでした。そのため「不死身の鬼美濃」と呼ばれたといわれています。

余談ですが、徳川四天王の一人である本多忠勝にも同様のエピソードがあり、両名とも優れた合戦師であることが伺えます。

 

馬場信春は長篠の戦いで、味方の軍勢が劣勢になっても組織的な戦闘を続け、ただ一人戦線を維持します。味方部隊が撤退を始めても動かず、勝頼が撤退し始めたときにようやく自身も撤退を始めます。そのときに馬場信春は快活に笑いながら「その判断はよし」と言ったといわれています。

 

撤退戦では自身の部隊を高台に配置し、追撃する織田軍を何度も撃退します。部隊の死傷者が増え、戦闘継続が難しくなったあとは、自分の部隊をも撤退させます。

そしてただ一人、敵中に取って返し「我こそは馬場美濃である。討ち取って手柄にせよ」と織田軍に呼びかけます。そして抵抗することなく、複数の槍を受けて討ち死にしました。

 

その働きは一次資料として名高い「信長公記」で「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評されました。

 

伊達輝宗 息子政宗に自分を討たせた粟ノ須の戦い

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(出典 Wikipedia)

伊達政宗の実父、伊達輝宗は政宗に劣らず優秀な武将でした。内政においては遠藤基信や鬼庭良直を重用し、戦いでは相馬氏から丸森城を奪い返すなど、伊達家の支配地域を着実に広げました。

 

そんな伊達輝宗が亡くなった粟ノ須の戦いは、輝宗が嫡男の政宗に家督を譲った後の1585年に起きました。

 

伊達政宗に破れ降伏した畠山(二本松)義継が伊達輝宗を拉致したのです。

鷹狩りをしていた政宗は現場である阿武隈川に駆けつけますが、父である輝宗が拉致されているため、戦闘を仕掛けることができません。

 

阿武隈川を渡れば畠山領であり、伊達家としては手が出せなくなります。実父が囚われたとなると、今後の外交で伊達家にとって不利な状況に追い込まれることは目に見えています。

 

そのときに輝宗は「自身もろとも撃て」と叫び、それを聞いた政宗は迷った末に一斉射撃を行います。輝宗は伊達家を救うために、畠山義継を道連れにこの世を去りました。

 

足利義輝 剣豪将軍と呼ばれた足利第十三代将軍の最後

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(出典 Wikipedia)

「剣豪将軍」で検索すると、トップに足利義輝が表示されます。いまや足利義輝の異名として定着しているといっていいでしょう。

足利義輝は塚原卜伝から直接剣術の指導を受け、奥義「一之太刀」を伝授されるほどの腕前でした。

 

政治においても自身が直接統治しようしたため、傀儡政権を望む松永久秀、三好三人衆と衝突します。松永・三好三人衆は足利義輝を暗殺しようと企み、1万(一説には2,000)もの兵を動員します。

 

御座所を松永・三好連合軍に包囲された義輝は、攻め込んできた相手を次々に切り倒します。童子切安綱、三日月宗近、鬼丸國綱など、足利家伝来の数々の名刀を取り出し、それを畳に何本も突き刺して準備していたといわれています。血糊で刀の切れが鈍ると、突き刺していた名刀と取り替えて、また相手を切り倒すという獅子奮迅の戦い振りでした。

 

寄せ手は剣豪である義輝を討ち取ることが出来ず、最期は四方から畳を立てて盾として義輝に刀を振るえないようにした上で、畳越しに槍で突き刺して倒したといわれています。

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高橋紹運 島津軍を相手に戦い抜いた大友家の名将

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(出典 Wikipedia)

衰退する大友家を支え続けた立花道雪は雷神との異名をとりましたが、同じく大友家を支えた高橋紹運は風神と呼称されました。

 

その最期は岩屋城の戦いで、わずか700名余の城兵に対して、島津軍は5万を超える大軍でした(一説には2万)。

籠城戦は半月におよび、戦の名手であった高橋紹運は島津軍の攻撃をことごとく退けます。島津軍の被害は甚大で5,000名近くにのぼりました。

 

その間、島津軍は高橋紹運に何度も降伏勧告を送ります。戦術上の理由もありますが、紹運があまりにも名将だっために、その死を惜しんだともいわれています。

驚くべきことに降伏勧告は、味方の豊臣秀吉の軍師である黒田官兵衛からも送られました。黒田官兵衛も高橋紹運の器量を惜しみ、撤退するように伝えましたが、高橋紹運は使者を丁重にもてなしながらも降伏勧告を断っています。

 

半月の籠城戦ののち、岩屋城は落城しました。高橋紹運を含め籠城した700余名全員が討ち死にするという壮絶な最期でした。

 

岩屋城は落城しましたが、島津軍の被害も大きく、大友領へ再度進軍するためには部隊の立て直しが必要でした。また半月もの間、岩屋城が持ちこたえたことで、豊臣軍20万が到着し、結果として大友家は存続することができたといえるでしょう。

 

大谷吉継 友情に関ヶ原で答えた名将

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(出典 Wikipedia)

最後はやはり大谷吉継を取り上げたいと思います。

 

関ヶ原の戦いで活躍した大谷吉継は、当初は石田三成の挙兵に反対しました。徳川家康とも友好関係にあった吉継は、石田三成の嫡男である石田重家を連れて徳川家康の東征に従軍する予定でした。

ところが石田三成から挙兵計画を打ち明けられて、友人であった吉継は三成に味方することを決意します。

 

関ヶ原では、小早川秀秋の去就が定まっていないことを見抜き、裏切ったときのために一部の部隊を温存さえしています。

 

小早川秀秋の裏切ったあとは、温存部隊を投入して小早川秀秋の軍勢を一時的に撃退します。その戦いぶりは徳川家康が、小早川秀秋がこのまま敗退するのでは、と取り乱したくらいでした。

 

大谷吉継の奮戦振りは、歴史作家の大家である司馬遼太郎氏の「関ヶ原」の描写が素晴らしいと思います。私の好きな一説でもあります。

「やれ、金吾なる者は、千載の醜名を残したぞ。裏切り者を崩せ。突けや。雑兵には目もくるるべからず。いちずに金吾が旗をめがけよや。金吾を討て、金吾を地獄に落とすのに牛頭馬頭邏卒の手をば借りるべからず。汝らが地獄の邏卒の先駆けをせよ」

と喚きつつ敵陣へ乗り入れてゆく吉継の声、姿は、鬼神が乗り移ったかのごとくであった。大谷勢は、死兵と化した。

金吾というのは小早川秀秋の官職の唐名です。司馬遼太郎氏は関ヶ原の戦いで、名将を上げるとすれば大谷吉継こそそうであろう、とも記載されています。

大谷吉継は友情に殉じ、関ヶ原にて35年の生涯を閉じました。

 

まとめ ー 様々な戦国武将の最期

戦国武将の最期をまとめるにあたって、自分の好きな武将を選択しました。他にも印象的な武将は数多く存在しますが、そこは個人のブログなのでご容赦いただければと思います。

 

また最期が畳の上だからといって、武将の評価が変わるわけでもありません。

 

黒田官兵衛は余生は、近所の子どもに読み書きを教えながら過ごしたといわれていますが、彼の関ヶ原の時期の九州での活躍は、名将といっていいものでしょう。

 

関ヶ原の戦いで西軍最大の1万7千の軍勢を率いた宇喜多秀家は、討ち死にせずに八丈島へ配流されました。

 

秀家の正室が加賀百万石前田家の豪姫だったこともあり、大名に復帰する機会もありましたが、秀家はそれを断ったといわれています。

なぜ断ったのかは、当時の秀家になってみないと分からないでしょう。

 

秀家は八丈島で83歳で世を去りますが、時は既に徳川4代将軍徳川家綱の治世でした。関ヶ原の戦いに参加した武将で、最も長生きしたのは宇喜多秀家です。

同時期の武将が姿を消していく中、配流された地で誰よりも長く生きた宇喜多秀家も、また見事な最期だといっていいのかもしれません。