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諸葛亮以外の諸葛氏について調べてみた。狗と評された諸葛誕とその息子諸葛靚

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「三顧の礼」で劉備に迎えられた諸葛亮(諸葛孔明。以下は諸葛亮と表記します)は有名ですが、諸葛氏の一族は呉や魏でも活躍しています。

 

諸葛亮の兄で呉の重臣である諸葛瑾や、その息子である諸葛恪、そして魏に仕えた諸葛誕が有名ですね。

 

諸葛氏の一族は名声が高く、

蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得た」と評されました。

 

今回は狗と評された諸葛誕とその一族について調べてみました。

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狗と評された諸葛誕

まず「蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得た」という表現は諸葛誕にとってはあまりいいものではありません。「狗」という言葉は中国語では嘲りの対象なので、蜀と呉よりもワンランク低い諸葛を魏は手に入れた、というくらいの意味でしょうか。

 

諸葛誕は諸葛珪の末子という説もありますが、諸葛珪のはその息子たち(諸葛瑾、諸葛亮など)が幼少の頃に亡くなっているので、実子である可能性は低そうです。ただ諸葛一族であることは間違いないようなので、族弟(同族の弟の世代)と考えておくのが妥当なところでしょうか。

 

諸葛瑾と諸葛亮の兄弟は若い頃に江南に移住しましたが、諸葛誕は魏の勢力範囲に留まっていたので、自然な流れで魏に仕えました。それを考えると移住していなければ、諸葛瑾も諸葛亮も魏に仕えていた可能性があるので、三国志の物語が大幅に変わっちゃいますね。

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諸葛誕の魏での活躍

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(出典 三國無双8

魏に仕えた諸葛誕は順調に出世を重ねましたが、彼が夏侯玄と親しかったことが災いを招きます。当時の魏には二つの派閥がありました。

  • 曹爽ー夏侯玄グループ
  • 司馬懿を中心とする司馬一族

二つの派閥争いは司馬懿のクーデターによって、司馬一族の勝利に終わります。曹爽は処刑され、夏侯玄も数年後に司馬師によって処刑されてしまいます。

 

諸葛誕は司馬懿とは縁戚だったこともあり、このときは難を逃れましたが、その後の呉との戦いに大敗(東興の戦い)したことから左遷されてしまいます。このときの呉の軍勢を率いていたのが、諸葛瑾の長男である諸葛恪だったのは歴史の皮肉というべきでしょうか。

 

いったんは左遷されたものの、その後に発生した毌丘倹の反乱で功を上げます。そのあとに攻めてきた呉の孫峻・文欽の軍勢も撃破し、魏の重臣としての地位を確立します。

 

諸葛誕の反乱と最後

諸葛誕は毌丘倹や王淩などの反司馬一族が討伐されたことから、曹爽グループだった夏侯玄と親しかった諸葛誕も身の危険を感じ始めます。

 

私兵を集めたり、呉の軍勢に備えると称して10万の援軍を要請したりしたことで、司馬昭と対立を深め、ついには反乱を起こします。十四万の軍勢を擁して寿春城に立てこもったのです。

 

諸葛誕は末子の諸葛靚を呉への使者(事実上の人質)として送りだし、援軍を要請しました。呉では一族の諸葛恪が孫峻のクーデターで死去していましたが、呉は戦略上の観点から諸葛誕の反乱を喜び、元魏将の文欽や、全端とその従兄弟の全懌らを援軍として送りこみます。

 

諸葛誕の軍勢は戦いの序盤では魏の名将楽進の息子である楽綝を破りますが、司馬昭が26万の軍勢を率いて寿春城を包囲すると、戦局は魏に傾きます。呉も朱異を将軍として寿春城の救援に迎いますが、魏の軍勢に阻まれてしまいます。

 

諸葛誕と文欽の連合軍は半年以上も籠城しますが、鍾会の計略で全端・全懌らが離反すると、元々仲の悪かった二人は作戦上の対立から、ついに諸葛誕が文欽を殺害してしまいます。このため文欽の子で武勇に優れた文鴦が魏に投降します。

 

司馬昭はこの状況を利用し、文鴦に「文欽の子でさえ殺されることはない。投降しても心配することはない」と呼びかけさせると、寿春城からは投稿者が続出するようになります。諸葛誕は最後に脱出を試みますが、乱戦の中で命を落とします。

 

その最期、数百以上の諸葛誕麾下の精兵たちは、降伏の薦めに従わず「諸葛公のために死ぬのであれば心残りはない」といって全滅したといわれています。

 

諸葛誕の息子、義の人諸葛靚

呉に赴いた諸葛誕の末子、諸葛靚は諸葛誕が滅んだために帰ることができず、そのまま呉に仕えます。有能な人物だったようで、順調に出世を重ね、呉が滅亡する前年には大司馬(当時の最高軍事責任者)にまで上り詰めます。

 

普が大挙して押し寄せて来ると、諸葛靚は孫震や張悌、沈瑩と共に防衛にあたります。序盤で諸葛靚は普の張喬を破りますが、降伏してきた張喬が偽りだと見抜いた諸葛靚は、張喬を斬ろうとします。でもこのときに皇族である孫震に反対されます。

 

その後は張悌、沈瑩の敗北もあり、呉軍は劣勢に立たされます。降伏していた張喬もやはり裏切り、最終的に呉は滅亡します。

 

諸葛靚は姉が司馬一族に嫁いでおり、皇帝である司馬炎とも幼馴染だったこともあり、その後は普の都である洛陽に移送されます。

 

司馬炎は諸葛靚の姉の仲介で、幼馴染だった諸葛靚と酒宴を設けます。司馬炎が諸葛靚に「幼い頃の友情を覚えているか?」と訪ねたところ、「私は墨を飲み、漆を身体に塗って復習することもできません」と答えて涙を流したといわれています。

 

これは春秋時代に豫譲という人物が、墨を呑んで喉を潰して声を変え、体中に漆を塗って皮膚をただれさせて変装し、主君の仇を討つ機会を狙った故事に由来しています。

 

父である諸葛誕を滅ぼした洛水の方角にいつも背中を向けていたというエピソードもあり、諸葛靚は義の人だったといっていいでしょう。

 

まとめ ー 狗と評された諸葛誕の子孫が一番繁栄した

諸葛靚は普には仕えませんでしたが、その息子である諸葛恢は呉が既に滅亡していたこともあり普に出仕します。才能溢れる人物だったようで、元帝、明帝、成帝の三代に仕え、尚書令などの要職を歴任しています。

 

諸葛亮の息子である諸葛瞻やその長男諸葛尚は蜀が滅んだときに戦死し、諸葛瑾の息子である諸葛恪も、才能はあったものの結果的には誅殺されています。

 

狗と評され、諸葛一族の中でワンランク低いと評された諸葛誕の一族が一番繁栄したのは、歴史の皮肉といっていいのかもしれません。