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話のネタ10選【戦国編】。武田信玄は茨城県出身? 吉良上野介は今川義元の子孫?

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武田信玄は茨城県出身?

吉良上野介は今川義元の子孫?

インスタント味噌汁は戦国時代の発明?

 

戦国時代に関連する話のネタを集めてみました。こういうトリビアがけっこう好きで、おもしろい話を聞いたときはメモったりしています。知っていても特に役に立たない雑学なのですが、ちょっと意外な話っておもしろいですよね。

 

 

今回は戦国時代にまつわる話をまとめてみました。話のネタにでもどうぞ^^

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武田信玄で有名な武田氏は山梨県ではなく茨城県出身

武田氏は清和源氏の一族で、源満仲の子である源頼信を祖先としています。この源頼信の孫の源義光が武田氏を名乗ったのが、武田氏の発祥だといわれています。

 

大河ドラマで武田家の祖先として新羅三郎義光という人物が出てくることがありますが、この新羅三郎義光が前述の源義光のことですね。

 

その源義光が常陸国那珂郡武田郷に移り住んだことから、武田氏を名乗りました。移り住んだ常陸国は、現在でいうと茨城県です。今も茨城県ひたちなか市に武田という地名が存在するようです。

 

一度、行ってみたいなー^^

 

忠臣蔵の敵役として有名な吉良上野介は今川義元の子孫

忠臣蔵の敵役として有名な吉良上野介は、桶狭間の戦いで織田信長に破れた今川義元のの子孫です。今川義元から数えて5代目の子孫になりますね。

 

今川義元には今川氏真という息子がおり、その娘が吉良義定に嫁いでいます。そこから吉良義弥→吉良義冬→吉良上野介(義央)と世代が繋がっています。今川氏真から数えて吉良上野介は玄孫になりますね。

 

インスタント味噌汁を最初に発明したのは増田長盛?

インスタント味噌汁が発売されたのは1974年ですが、戦国時代にインスタント味噌汁を製造していたといわれている人物がいます。豊臣政権の五奉行の一人である増田長盛です。

 

増田長盛はごぼう、大根、にんじん、鰹節などを入れた味噌汁を乾燥させたものを考案したといわれています。持ち運びが便利な上に、現地で煮込めばすぐに味噌汁として食べることができたとか。

 

戦国時代には他にも縄を味噌で煮しめたあとで乾燥させ、荷駄を運ぶときに使用して、使用後は鍋に入れて味噌汁の具にしたという話もあります。インスタント味噌汁の起源は戦国時代にありそうですね。

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今川焼きの「今川」は桶狭間の戦いから?

今川焼き、回転焼き、大判焼き、どんどん焼きなど様々な呼び方のある和菓子の今川焼きですが、今川焼きの「今川」は今川氏から名付けられたという説があります。

 

今川焼きは江戸時代に、江戸市内の今川橋付近で売られ始めたのが最初だといわれています。売り始めたのが誰なのかはわかっていませんが、今川橋と今川氏をかけて、「桶狭間でどんどん売られる今川焼き」などと、当時から有名だった桶狭間の戦いとかけて喧伝されたことから「今川焼き」という名称が広まりました。

 

織田信長はコスプレで女装をしたことがある

一次資料として名高い「信長公記」に、村の祭りに信長が女装をして踊ったという記述があります。

 

「天人の御仕立に御成り候て、小鼓を遊ばし、女おどりをなされ候」

 

天人ということは天女の格好をして、女性の踊りを踊ったという感じでしょうか。最近、信長が女体化、もしくは男の娘の作品が流行っていますが、これが発祥かもしれませんね(たぶん違う)。

 

豊臣秀吉は徳川家康より領地が少なかった

戦国時代を終わらせて天下統一を成し遂げた豊臣秀吉ですが、その直轄領は徳川家康よりも少なかったことが分かっています。

  • 徳川家康 関八州 250万余石
  • 豊臣秀吉 大坂・機内など 220万余石

徳川家康の方が領地は大きかったのでした。

 

豊臣秀吉は経済感覚に優れていて、全国の金山や重要な土地を蔵入地として直轄していたので、領土は少なくても実際の金銭収入は徳川家康よりも遥かに多かったといわれています。領土よりも経済を重視していたのかもしれませんね。

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精密機器メーカー島津製作所の名付け親は島津義弘

名前が名前なのでご存知の人も多いかもしれません。精密機器メーカーの株式会社島津製作所の名付け親は、関ヶ原の戦いの中央突破で有名な島津義弘です。

 

島津義弘が上京した際に世話をした「井上惣兵衛」という人物に感謝して、義弘が島津氏の姓を与えたそうです。その井上惣兵衛の子孫に島津源蔵という方がおり、この方が島津製作所の創業者だそうです。

 

真田幸村は一度も幸村と名乗ったことがない

これは以前ではトリビアといっていい話だったのですが、大河ドラマ「真田丸」の影響でもうすっかり有名になっちゃいました。

 

大坂の陣で活躍した真田幸村ですが、その生涯で一度も「幸村」と名乗ったことがありません。通称は左衛門佐で、真田左衛門佐信繁、もしくは真田源次郎信繁というのが名乗りでした。

 

信繁という名前は、武田信玄の弟で名将の誉れ高かった武田信繁から名付けられたといわれています。

 

徳川家光は男色家だったため、女性を男装させていた

戦国時代からはちょっと離れてしまいますが、江戸時代の徳川第三代将軍の徳川家光は、かなりの男色家だったそうです。

 

そのため世継ぎができないことを心配した春日局が、ボーイッシュな女性を男装させて徳川家光の元に送りこみました。この作戦は見事に功を奏し、徳川家光の最初の子供はこの男装の女性から生まれたといわれています。

 

この男装の女性というのが、お振の方という石田三成の子孫だったりします。

 

 

石田三成の祖先は源義仲を討ち取っていた

石田三成の祖先は石田判官為久という説があります。

 

石田判官為久は源平時代に源義仲(木曽義仲)を討ち取っています。為久が源義仲を矢で居抜き、郎党が駆け寄って首を取ったことが「平家物語」や「吾妻鏡」に記載されています。

 

石田三成の先祖は実は明確には分かっていないのですが、三成が使用した家紋は九曜紋であり、石田為久と同じであることから、先祖である可能性はあるかもしれませんね。

 

まとめ ー いろいろな戦国時代の雑学を紹介

話のネタになる戦国時代の雑学の紹介でした。

 

紹介したなかでは、武田氏の発祥の地である茨城県ひたちなか市武田が一番気になったので、グーグルマップで検索してみました。

確かに地名が武田ですね。しかも武田氏館跡まであるようです。

これは行ってみたいなー^^