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戦国時代で戦力差を覆して勝利した戦いのランキング10

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戦国時代に繰り広げられた数々の戦いでは、大きな戦力差があったのにもかかわらず勝利した戦いがいくつもありました。

 

一番有名なのは、織田信長が今川義元を打ち破った桶狭間の戦いでしょうか。このときに信長が率いた軍勢は2,000人、今川義元は2万5,000人の軍勢を率いていたといわれています(諸説あり)。

 

比率にすると2:25、倍率にすると12.5倍もの戦力差があったにもかかわらず、勝利したことになります。

 

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今回は大きな戦力差があったのにもかかわらず勝利した戦いのランキングを作成してみました。

 

ランキングを作成するにあたって

戦国時代の戦いのため、率いていた軍勢には諸説あります。

桶狭間の戦いを例にとると、

  • 織田信長 2,000~3,000人
  • 今川義元 1万5,000人~4万5千人

くらいの差異があります。

 

何倍の敵を打ち破ったのか、を基準にランキングを作成しましたので、勝利した側の数を少なく見積もるだけでランキングが大きく変動します。

 

各種資料は参考にしましたが、最終的には私の独断と偏見で人数を決定したので、史実とは異なる可能性があることをご容赦いただければと思います。

 

1位 和歌川の戦い(紀州征伐)

  勝利 敗北
対戦相手 雑賀孫市 織田信長
人数 2,000人 約10万人
比率 1 50
倍率 50倍  

織田信長の紀州征伐の戦いの一つが和歌川の戦いです。

 

1577年2月、織田信長は石山本願寺に味方する紀州の鉄砲集団雑賀衆を討伐するため、紀州征伐に赴きました。率いた軍勢は約10万人といわれています。

 

雑賀衆の棟梁である雑賀孫市(鈴木重秀)は、和歌川の水をせき止めて川底に多数の瓶を沈め、再び水を流しました。

 

織田軍が和歌川に突入すると、多くの兵や馬が瓶に足が取られて立ち往生してしまいます。そこに雑賀衆得意の鉄砲で狙撃し、織田軍に大損害を与えました。

 

その後も雑賀孫市は、山岳地帯を活かしたゲリラ戦を展開しました。そして一ヶ月もの間、織田軍に抵抗し、最終的に信長を撤退に追い込んだのです。

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2位 忍城の戦い(小田原征伐)

  勝利 敗北
対戦相手 成田長親 石田三成
人数 2,000人 約5万人
比率 1 25
倍率 25倍  

「のぼうの城」で一躍有名になったのが忍城の戦いです。豊臣秀吉による北条家征伐の戦いの一つで、北条方についた成田家の忍城を石田三成が攻めた戦いが忍城の戦いです。

 

成田家の直属の軍勢は500人でしたが、付近の住民が成田家に協力して入場したため、実質的な戦闘要員は2,000人くらいでしょうか。

 

秀吉側の石田三成は、当初は大谷吉継長束正家など2万人規模でしたが、のちに浅野長政上杉景勝前田利家など大大名も加わり、最終的には約5万人の規模になったといわれています。

 

それだけの軍勢を相手に負けなかったのですから、成田長親は稀代の名将なのかもしれません。

 

3位 第二次上田合戦

  勝利 敗北
対戦相手 真田昌幸 徳川秀忠
人数 3,000人 3万8千人
比率 3 38
倍率 12.7倍  

関ヶ原の戦いの前に徳川軍は軍勢を二手に分けました。主戦力は徳川家康自らが率いて東海道を西へ、もう一方の軍勢は跡継ぎである徳川秀忠が率いて中山道を進みました。

 

このときに徳川秀忠が率いていた軍勢は3万8千人という大軍でした。この軍勢は結局は関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。信州上田で真田昌幸によって足止めされたからです。

 

秀忠の麾下には徳川四天王の一人、榊原康政や家康の参謀といわれた本多正信などの名将がいましたが、それでも真田昌幸の術中にはまってしまったのでしょう。

 

真田氏は信濃の山間部を本拠地としていたため、真田幸村や一族の矢沢頼綱など、小規模な戦闘に非常に優れていたのでしょうね。

 

4位 桶狭間の戦い

  勝利 敗北
対戦相手 織田信長 今川義元
人数 2,000人 2万5千人
比率 2 25
倍率 12.5倍  

実際の戦力差はともかく、戦国時代で小勢で大軍を破った戦いとして、最も有名なのが桶狭間の戦いでしょう。

 

織田信長は3,000人の軍勢を率いていましたが、各地の砦などに分散して配置していた兵を引くと、直接指揮していたのは2,000人というのが妥当なところでしょうか。

 

対する今川義元の軍勢は「信長公記」に4万5千人という記述がありますが、実質的には2万5千人くらいだったであろうといわれています。

 

豪雨に紛れて義元の本陣に接近した信長軍は、義元軍の本体に奇襲を仕掛け、見事に義元本人を打ち取りました。

 

戦国時代の戦いは、敗北したとしても大将が討ち取られることはあまりなく、そういう意味でも歴史に残る戦いでした。

 

5位 今山の戦い

  勝利 敗北
対戦相手 龍造寺隆信 大友宗麟
人数 5,000人 約8万人
比率 1 16
倍率 16倍  

戦国時代の九州三強というと大友、島津、龍造寺ですが、当初は大友宗麟率いる大友氏が最大勢力を誇っていました。その大友氏に勝利し、龍造寺氏の勢力拡大のきっかけになったのが今山の戦いです。

 

1570年3月、勢力を拡大しつつある龍造寺氏を討伐するため、大友宗麟は8万ともいわれる大軍を率いて肥前に侵攻しました。

 

龍造寺隆信は相手が大軍であったために、佐嘉城(のちの佐賀城)に籠城します。ただ籠城といっても援軍のあてはなく、いずれは落城するものと思われていました。

 

大友宗麟は実弟の大友親貞を総大将として、佐嘉城攻略の総攻撃を命じます。大友親貞は総攻撃の前日に、家臣とともに盛大な宴会を催しますが、それに気づいたのが鍋島信生(のちの鍋島直茂)でした。

 

大友軍が宴会で気が緩んだところに、精鋭を率いて夜襲をしかけ、攻略軍の大将であった大友親貞を討ち取ります(実際に討ち取ったのは龍造寺四天王の一人である成松信勝)。

 

大友軍を退けた龍造寺隆信は、以後、九州三強の一角として勢力を拡大していくことになります。

 

同率6位 沖田畷の戦い

  勝利 敗北
対戦相手 島津家久 龍造寺隆信
人数 6,000人 約6万人
比率 1 10
倍率 10倍  

大友氏を今山の戦いで退けた龍造寺氏ですが、その後、島津氏に破れて衰退していくことになります。そのきっかけとなった戦いが沖田畷の戦いです。

 

1584年、裏切った有馬晴信を討伐するため、龍造寺隆信6万といわれる大軍を率いて出陣します。

 

有馬晴信に味方する島津氏は、島津四兄弟の末弟、島津家久を援軍として送り込みました。島津家久はマンガ「センゴク権兵衛」で戸次川の戦いの対戦相手としても登場する名将です。

 

島津家久・有馬晴信の連合軍は、大軍である龍造寺軍を相手に、いったんは破れたふりをして退却し、龍造寺軍を沖田畷といわれる湿地帯に誘い込みます。沖田畷は湿地帯であるうえに、大軍を動かすには非常に狭い地形でした。

 

島津軍は龍造寺軍を沖田畷に誘い込んでから、総攻撃に転じました。龍造寺軍は大軍であったために敗戦した先方と、攻撃しようと進軍する後軍とで大混乱に陥りました。

 

最終的には当主である龍造寺隆信を始め、龍造寺四天王の成松信勝、百武賢兼など多くの武将が討ち死にし、龍造寺氏は以後、衰退していくことになります。

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同率6位 木崎原の戦い

  勝利 敗北
対戦相手 島津義弘 伊東義祐
人数 300人 3,000人
比率 1 10
倍率 10倍  

島津四兄弟の次男、島津義弘が寡兵で伊東氏を破った戦いが木崎原(きざきばる)の戦いです。

 

島津家の当主島津貴久(島津四兄弟の父)が没すると、伊東義祐はこれを好機とみて、一族の重臣である伊東祐安に3,000の兵を授け、島津領に侵攻します。当時の島津軍は肝付氏とも敵対していたため、島津義弘が率いていたのはわずか300ほどの小勢でした。

 

島津義弘は島津軍のお得意の戦法である「釣り野伏せ」を用いて、伊東軍を巧みに引き寄せては伏兵で攻撃し、ついには大将である伊東祐安を討ち取ります。ただ島津軍も300という小勢であったがために、250人以上が討ち死にしたといわれる激戦でした。

 

8位 河越城の戦い(河越夜戦)

  勝利 敗北
対戦相手 北条氏康 上杉憲政
人数 1万1,000人 約8万人
比率 11 80
倍率 7.27倍  

戦国時代の三大奇襲戦といわれている戦いがあります。

  • 桶狭間の戦い
  • 河越城の戦い
  • 厳島の戦い

河越城の戦いはその三代奇襲戦のひとつで、北条氏康山内上杉憲政を破った戦いです。

 

1545年、山内上杉憲政は扇谷上杉朝定足利晴氏らと共同して、当時勢力を広げつつあった北条氏の拠点のひとつである河越城を包囲します。その数は8万といわれる大軍でした。

 

河越城は北条氏康の弟で、名将といわれる北条綱成が守っていたため、半年以上も籠城に耐え抜きました。ただ、城兵は3,000人でしかなく落城は時間の問題でした。

 

翌1546年、北条氏康は8,000人を率いて援軍に駆けつけます。半年以上にも及ぶ長期の攻略戦で、上杉氏らの連合軍の戦意は低下していました。北条氏康は「綱成や城兵の生命を救ってくれるのであれば、領地は引き渡す」と上杉方に申し入れます。

 

上杉方はこの申し入れを断ったとも、信じて兵を引き上げたともいわれています。この辺りは諸説があり、明確にはなっていません。ただ、北条氏康の降伏の申し入れによって、上杉方が楽観視して軍規が緩んだことは確かでしょう。

 

北条氏康はこの機を残さず、上杉軍に対して夜襲を仕掛けました。城兵の北条綱成も呼応して出撃したため、上杉軍は大混乱に陥り敗北しました。大将の一人である扇谷上杉朝定は討ち死にし、1万人以上の兵士が戦死したといわれています。

 

9位 手子丸城の戦い

  勝利 敗北
対戦相手 真田信幸 多目元忠
人数 800人 5,000人
比率 4 25
倍率 6.25倍  

真田氏は有名武将を何人も排出していますが、真田昌幸の長男であり真田幸村(信繁)の兄である真田信幸(のちの真田信之)も名将でした。

 

1582年10月、北条氏は真田氏を支配下に置くべく、多目元忠(多米元忠とも)を大将とする軍勢を差し向けます。多目元忠は配下の富永主膳らとともに手子丸城を攻略し、城主であった大戸兄弟を自刃に追い込みます。

 

岩櫃城にいた真田信幸は、手子丸城の奪還を計画し、わずか800の手勢を率いて出陣します。信幸軍は仙人窟と呼ばれる場所に兵を伏せて、北条軍の到着を待ち受けます。北条軍は真田軍が小勢であることで侮り、城を出て仙人窟まで一気に押し寄せました。

 

真田信幸は北条軍を破るためにいくつもの策を用意します。

  • 自身は300の兵を率いて伏兵に
  • 手子丸城奪取のために別部隊を向かわせる
  • 周辺への放火
  • 自身の影武者を用意

城を出て出撃した北条軍でしたが、別働隊の動きに気を取られ、手子丸城を奪取されると勘違いした富永主膳が城に戻ろうとします。また影武者を務めた唐沢某を真田信幸と勘違いし、討ち取ろうとしたために混乱に陥ります。

 

周辺への放火もあって、北条軍が真田軍に包囲されたと狼狽し始めたところに、森に潜んでいた信幸率いる伏兵が突撃したため、北条軍は潰走へと追い込まれました。

 

10位 天王寺の戦い

  勝利 敗北
対戦相手 織田信長 雑賀孫市
人数 3,000人 1万5,000人
比率 1 5
倍率 5倍  

10位は織田信長と石山本願寺との戦いである石山合戦のひとつ、天王寺の戦いです。対戦相手の欄には織田信長vs雑賀孫市と書きましたが、雑賀孫市が全軍を指揮していたのかは分かっていません。ただ戦闘に加わっていたのは事実です。

 

雑賀孫市率いる鉄砲集団雑賀衆を味方につけた本願寺勢は、明智光秀ら織田軍を破り、天王寺砦を包囲します。

 

明智光秀から急報を受けた信長は光秀を救うべく、京都で軍を招集しますが、急な命令だったため、わずか3,000人しか軍勢が集まりませんでした。

 

それでも「目の前の自軍を見捨てては笑いものになる」といって、3,000人の軍勢で本願寺勢15,000人に突撃をしかけ、見事に本願寺勢を破って天王寺砦の明智光秀と合流します。信長自身が鉄砲で太ももを負傷したほどの激戦でした。

 

翌日、家臣が猛反対する中、信長は再び本願寺勢に攻撃をしかけて本願寺勢を破り、門徒宗2,700人を討ち取りました。信長はこの戦いで二度も小勢で大軍を破ったことになります。

 

選外その1 第三次沼田城攻防戦(沼田城の戦い)

  勝利 敗北
対戦相手 矢沢頼綱 北条氏直
人数 2,000人 約7万人?
比率 1 35
倍率 35倍  

倍率で考えると2位にランクインしてもおかしくない戦いが第三次沼田城攻防戦(沼田城の戦い)です。

 

矢沢頼綱は真田氏に仕えた名将で、この人を戦国最強に挙げる人も多くいます。矢沢頼綱は真田幸隆の実弟で、真田氏の家老筆頭の位置にありました。真田昌幸からみれば叔父に当たる人物です。

 

矢沢頼綱は北条氏による沼田城への攻撃を4度(数え方によっては3度)も退けています。特に3度めの戦いは、北条軍は7万もの軍勢で押し寄せたといわれています。

 

ただ、当時の北条氏の領土は200万石足らずだったので、動員能力で考えると約5万人です。しかも全軍を沼田に差し向けることができたのかどうか、という疑問が残ります。

 

いくつか手持ちの歴史本をひっくり返してみたのですが、北条軍の率いていた軍勢が特定できなかったために選外としてみました。

 

ちなみに大河ドラマ「真田丸」で、沼田城を引き渡すときに「わしはここに残る!」といって柱に自分の身体を縄で結びつけていたおじいちゃんが矢沢頼綱です。

 

迂余曲折を経て、最終的に沼田城は北条氏に受け渡すことになるのですが、城を守り抜いた矢沢頼綱の気持ちは分かりますね。

 

選外その2 泗川の戦い

  勝利 敗北
対戦相手 島津義弘 董一元
人数 7,000人 約20万人
比率 7 200
倍率 28.57倍  

豊臣秀吉による朝鮮出兵である文禄・慶長の役での戦いの一つが泗川の戦いです。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、大軍を打ち破った戦いとして有名です。海外での戦いということもあり、選外としました。

 

明の将軍である董一元が20万人といわれる大軍を率いて泗川に攻め寄せたときに、日本軍は島津義弘率いる島津軍しか駐屯していませんでした。

 

島津義弘は明軍の食料を奇襲で焼き払った上で、強固な陣地を構築し、大量の鉄砲を用意して敵に備えました。

 

董一元が率いる軍勢は大軍でしたが、明と朝鮮の連合軍であったために統制が取れておらず、島津軍が少人数だったために軍規も緩んでいました。戦闘では明軍の火薬庫が引火して爆発したところに、島津軍が突撃を仕掛けたために明軍は大混乱に陥りました。

 

この戦いで明軍が出した戦死者は3万人から8万人ともいわれ、以後、島津の名は「鬼石蔓子(グイシーマンズ。おにしまづの意)」と呼ばれ、朝鮮だけではなく明国までもその名を恐れられたといわれています。

 

まとめ ー 和歌川の戦いという意外な戦いが一位に

和歌川の戦いという意外な戦いが1位になりました。和歌川の戦いはWikipediaにも独立したページがありません。それくらい知名度が低い戦いが1位でいいのかなあ、とちょっと悩みましたが、どう考えても倍率だとこの戦いが1位になるので、まあ、良いかななと。

 

木崎原の戦いである300vs3,000と、河越城の戦いである11,000vs8万とでは、後者の方が大変というか、戦史的には重要性が高いのかもしれません。ただ今回のランキングは倍率だけに絞ったのでこの順位になりました。

 

沼田城の戦いの北条軍の軍勢が分からず、選外とせざるを得なかったところにちょっと悔いが残ります。手子丸城の戦いもそうですが、この辺りは本当に資料が少ないです。

 

手子丸城の戦いは「加沢記」という真田家の家臣が記した書籍が残っているのですが、沼田城の戦いはほとんど資料がありません。実話だったら北条の大軍を4度も退けた矢沢頼綱はまさに名将ですね。真田一族恐るべし。

 

他に有名どころの戦いも調べてみたのですが、

  • 人取橋の戦い 4.29倍
  • 厳島の戦い 4倍
  • 小牧・長久手の戦い 4倍
  • 第一次上田合戦 4倍

などが惜しくもランク外になりました。伊達政宗毛利元就を登場させたかった・・・

 

他に地方の戦いで私が把握していない戦力差の戦いもあるような気がします。調べていて気づいたものがあったら、こっそり書き変えるつもりなので、ランキングは変わるかもしれません。

 

その場合はどうかご容赦を(^^;