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「破竹の勢い」の語源になった三国志の末期の晋の杜預

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三国志を由来とする言葉はいくつかあります。有名なのは「白眉」や「苦肉の策」あたりでしょうか。そして「破竹の勢い」という言葉も、実は三国志から生まれた言葉です。

 

この言葉の由来となったのは晋の杜預で、呉を滅ぼした人物として知られています。蜀は既に滅んでいたので、三国志の幕を下ろした人物ですね。

 

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(出典 三国志13)

そのうちコーエーさんの三國無双のプレイヤーキャラとして登場するのではないでしょうか。同時期に活躍した賈充はもう出てますし。まあ、杜預は矢も打てず、馬にも乗れなかったといわれているので、登場はしないかもしれませんが。 

 

実父の杜恕が司馬懿と対立したため出世が遅れる

呉を滅ぼした名将の杜預ですが、世に出たのは255年ごろでした。諸葛亮が死去したのが234年なので、それから20年以上も後のことになります。

 

実父である杜恕が司馬懿と対立し、幽閉されたまま死去したことから、杜預が若い頃は出世することはありませんでした。

 

その杜預がどういう訳か司馬昭の妹と結婚することになります。司馬懿からみれば女婿という関係です。なぜ司馬懿と対立していた杜恕の息子である杜預と司馬懿の娘が結婚することになったのかは、史書には何も書かれていません。

 

おそらく司馬懿の死後、司馬昭が杜預の人物を見込んで、味方に取り込むべく妹と結婚させたのではないでしょうか。

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鍾会に従い蜀を滅ぼす

263年に杜預は鍾会に従い蜀を滅ぼしています。

 

鍾会という人物は姜維の誘いもあり、自立しようと挙兵するのですが、結局は失敗しています。この反乱に参加した人物のほとんどは、鍾会とともに殺されてしまいますが、杜預だけは知恵を働かせて逃れています。

 

杜預は非常に政治にも軍事に優れており、博学多才だったことから、「杜武庫」という異名があったそうです。武器庫のように知恵が出てくるという感じでしょうか。その知恵を生かして、鍾会の反乱からも上手く逃れたのでしょう。

 

晋の総司令官として呉を滅ぼす

晋の武帝である司馬炎は杜預を総司令官として、20万の軍勢で呉の討伐に乗り出します。対する呉は暴君孫皓の悪政もあり、国力は弱まっていました。

 

杜預は孫氏の一族である呉の都督孫歆を捕え、陸遜の孫である陸晏・陸景らも破り、呉の首都の建業に迫ります。

 

ところが、呉の首都を間近にした軍議では、疫病が流行ったこともあって胡奮らが慎重論を唱えます。杜預はこれに反対し、竹を割るように勢いに乗って一挙に攻撃すると主張し、ついには呉を滅ぼします。

 

そしてその言葉が「破竹の勢い」として、現在でも用いられているのです。

 

まとめ ー 三国志の幕を下ろした人物

杜預は三国志の幕を下ろした人物といっていいでしょう。三国のうち最後に残った呉を滅ぼしたのですから、当然といえば当然ですね。

 

三国志演義にも最終章に杜預は登場し、ほぼ史実通りの活躍をします。三国志好きな人でも、諸葛亮の五丈原か、もしくは姜維の最期くらいまでしか読まない人も多いのではないでしょうか。

 

横山光輝のマンガ版三国志でも、吉川英治の小説三国志でも杜預は出てきません。でも、杜預という人物は、演義で活躍する名将達にも劣らない活躍をしていると思います。

 

誰か正史でも演義でもいいので、黄巾の乱から杜預が呉を滅ぼすまで、三国志の小説を書いてくれないかな^^