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四天王、三人衆、十勇士、五名臣など戦国時代の呼称のまとめ

戦国時代に登場する武将には様々な呼称があります。

  • 四天王
  • 三人衆
  • 十勇士
  • 五名臣
  • 三弾正
  • 七本槍
  • 七将
  • 五大老
  • 三中老
  • 五奉行

思いつくままに上げてみましたが、かなりの数がありそうです。ほとんどが戦国時代よりあとに名付けられたものですが、こういうのってちょっとかっこいいですよね。

 

いちばん有名なのは徳川四天王でしょうか。ただ四天王という呼称は武田家や龍造寺家にもありますし、探せば他にもありそうです。

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こういう呼称は中二っぽい、といわれると、いい歳した男にとってはちょっとショックなのですが、今日は戦国時代の武将に付けられた名称についてまとめてみました。

 

徳川四天王

徳川家に仕えた功績のあった四人の武将。筆頭は最年長の酒井忠次といわれている。酒井忠次と並ぶ重臣だった石川数正を入れたものもあるが、石川数正が出奔したこともあって、今は以下の四人の武将が通説になっている。

  • 酒井忠次
  • 本多忠勝
  • 榊原康政
  • 井伊直政

 

武田四天王

武田信玄に仕えて功績のあった四人の武将。

  • 山県昌景
  • 馬場信春
  • 内藤昌豊
  • 高坂昌信 

 通常は上記の四人だが、信玄の初期は以下の武将とする説もある。

  • 板垣信方
  • 甘利虎泰
  • 飯富虎昌
  • 小山田昌辰

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上杉四天王

上杉謙信に仕えて功績のあった四人の武将。

  • 宇佐美定満
  • 柿崎景家
  • 直江景綱
  • 甘粕景持

柿崎景家、直江景綱、甘粕景綱は実績があったのは確実だが、宇佐美定満は実在の人物であるものの、出自や功績が曖昧なところがある。

筆頭は柿崎景家となっているものが多いが定かでない。宇佐美定満が20歳以上も年長であることを考えると、宇佐美定満が引退後に柿崎景家が重臣筆頭の位置についたのかもしれない。

 

龍造寺四天王

龍造寺隆信に仕えて功績のあった四人の武将。

  • 成松信勝
  • 百武賢兼
  • 木下昌直
  • 江里口信常

成松信勝、百武賢兼、木下昌直についてはほぼ確実だが、江里口信常については円城寺信胤と入れ替わっているものもある。

 

三英傑

戦国時代に天下統一へと導いた三人の武将。三人とも現在の愛知県(信長、秀吉は尾張、家康は三河)出身だったこともあり、中部地方でよく使われている。

  • 織田信長
  • 豊臣秀吉
  • 徳川家康

 

五大老

豊臣秀吉に仕えた五人の戦国大名。史書には五人の衆と記載されているが、五大老という呼び方が一般化している。

  • 徳川家康
  • 前田利家
  • 上杉景勝
  • 毛利輝元
  • 小早川隆景

小早川隆景の死後は宇喜多秀家を入れて五大老としているものが多い。

 

三中老

豊臣秀吉に仕えた三人の大名。五大老と五奉行の調整役であったとされるが、一次資料では確認されていない。

  • 生駒親正
  • 堀尾吉晴
  • 中村一氏

 

五奉行

豊臣秀吉に仕えて実務を担当した五人の奉行。豊臣政権の実務を担当した。

  • 浅野長政
  • 前田玄以
  • 石田三成
  • 増田長盛
  • 長束正家

五奉行の筆頭は石田三成とされることもあるが、年齢と実績から考えると浅野長政だった可能性が高い。

 

毛利両川

毛利家を支えた吉川元春と小早川隆景の兄弟のこと。二人とも名前に「川」という文字が入っていたことから名付けられた。豊臣秀吉の手紙にも「両川」の文字があり、戦国時代から使われていたとされる。

  • 吉川元春
  • 小早川隆景

 

賤ヶ岳七本槍

七本槍は小豆坂や蟹江の戦いでも呼称されているが、一番有名なのは柴田勝家と羽柴秀吉が激突した賤ヶ岳の戦いの賤ヶ岳七本槍。秀吉による家臣団の喧伝の意味合いが強い。

  • 加藤清正
  • 福島正則
  • 加藤嘉明
  • 片桐且元
  • 脇坂安治
  • 糟屋武則
  • 平野長泰

 

三好三人衆

畿内に君臨した三好長慶の死後に、三好家を支えた三人の武将。当時から三人衆と呼称されていたらしい。

  • 三好長逸
  • 三好政康
  • 岩成友通

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西美濃三人衆

斎藤道三の仕えた三人の武将。斎藤龍興の代になると、全員が斎藤家を見限って織田信長に仕えた。

  • 稲葉一鉄
  • 安藤守就
  • 氏家卜全

 

真田十勇士

真田幸村に仕えた十人の侍、忍者、僧侶たちの名称。架空の人物だが、モデルになった人物は存在したとされる。

  • 霧隠才蔵
  • 猿飛佐助
  • 三好清海入道
  • 三好伊佐入道
  • 穴山小助
  • 海野六郎
  • 根津甚八
  • 由利鎌之助
  • 筧十蔵
  • 望月六郎

 

尼子十勇士

山陰地方の戦国大名である尼子氏に仕えた十人の侍の呼称。筆頭といわれる山中鹿之介は「我に七難八苦を与え給え」のセリフで有名。実在の人物が含まれている。

  • 山中鹿之介
  • 秋宅庵之介
  • 横道兵庫之介
  • 早川鮎之介
  • 尤道理之介
  • 寺本生死之介
  • 植田早稲之介
  • 深田泥之介
  • 薮中荊之介
  • 小倉鼠之介

 

三弾正

武田信玄に仕えた三人の武将。三人とも官位が弾正忠であったことから呼称がついた。

  • 真田幸隆 攻め弾正
  • 保科正俊 槍弾正
  • 高坂昌信 逃げ弾正

高坂昌信は逃げ弾正と呼ばれるが、別に逃げるのが得意だった訳ではなく、戦で最も難しいといわれる撤退戦が上手かったために逃げ弾正と呼ばれた。

 

三大梟雄

戦国時代に活躍したが、裏切りが多かったために梟雄と呼ばれた武将。

  • 斎藤道三
  • 松永久秀
  • 宇喜多直家

資料によっては北条早雲が入るものもある。

 

織田五大将

織田信長に仕えた五人の司令官。それぞれ担当地域の戦闘と行政を受け持ったとされる。

  • 柴田勝家 北陸方面
  • 丹羽長秀 若狭・四国方面
  • 滝川一益 伊勢・関東方面
  • 明智光秀 畿内方面
  • 羽柴秀吉 中国方面

 

豊臣七将

豊臣秀吉に仕えた武断派の7人の武将。単に七将とも。石田三成襲撃事件を起こした。

  • 加藤清正
  • 福島正則
  • 細川忠興
  • 池田輝政
  • 浅野幸長
  • 加藤嘉明
  • 黒田長政

 

秀頼七将

豊臣秀頼に仕えて大坂の陣で活躍した7人の武将。

  • 真田幸村
  • 後藤又兵衛
  • 毛利勝永
  • 長宗我部盛親
  • 大野治房
  • 明石全登
  • 木村重成

 

黒田八虎

黒田官兵衛もしくは黒田長政に仕えた8人の武将。

  • 母里太兵衛
  • 後藤又兵衛
  • 栗山善助
  • 井上之房
  • 黒田一成
  • 黒田利高
  • 黒田利則
  • 黒田直之

 

甲陽五名臣

甲陽軍鑑に五名人と記述のある武田家に仕えた五人の重臣。武田の五名臣とも。

  • 山本勘助
  • 原虎胤
  • 横田高松
  • 小畠虎盛
  • 多田三八郎

 

大友三宿老

大友宗麟に仕えた三人の家老。立花道雪は生存中は立花姓を名乗っておらず、正しくはは戸次道雪。

  • 立花道雪
  • 臼杵鑑速
  • 吉弘鑑理

 

浅井四翼

浅井家に仕えた四人の武将。「近江輿地志略」に浅井四翼の記述がある。ちなみに「近江輿地志略」は国立国会図書館のデジタルライブラリーで閲覧ができる。

  • 磯野員昌
  • 大野木国重
  • 野村定元
  • 三田村秀俊

 

海赤雨三将

浅井家に仕えた三人の武将。それぞれの名前の頭文字を取って名付けられた。単に「浅井三将」とも呼ばれる。

  • 海北綱親
  • 赤尾清綱
  • 雨森弥兵衛

 

三河三奉行

徳川家康が三河を統治していたときの奉行衆。「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎」という俗謡が有名。

  • 高力清長
  • 本多重次 通称は作左衛門
  • 天野康景 通称は三郎兵衛

 

三勘兵衛

通称に「勘兵衛」の名が付く三人の武将。杉江勘兵衛は石田三成の家臣で、関ヶ原の戦いで辻勘兵衛に討たれた。

  • 杉江勘兵衛 石田三成家臣
  • 辻勘兵衛 辻重勝。田中吉政の家臣
  • 渡辺勘兵衛 渡辺了。藤堂高虎の家臣

 

右近左近

奈良の筒井家の家臣だった松倉重信と島清興の二人。松倉重信の通称は右近、島清興はのちに石田三成に仕えた島左近のこと。

  • 松倉右近
  • 島左近

 

両兵衛

豊臣秀吉に仕えた二人の軍師のこと。二兵衛という呼び方も。竹中重治が黒田孝高の長男の松寿丸(後の黒田長政)をかくまったエピソードは有名。

  • 竹中重治 通称は半兵衛
  • 黒田孝高 通称は官兵衛

 

一対坊主

毛利家と長宗我部家にそれぞれ仕えたの二人の外交僧を指す。主に政治や外交面で活躍したことから一対坊主と呼ばれた。

  • 安国寺恵瓊 毛利家の外交僧
  • 滝本寺非有 長宗我部の外交僧

 

大坂之左右之大将

本願寺に仕えて石山合戦を指揮した二人の人物。鈴木重秀は傭兵集団である雑賀の棟梁で、下間頼廉は本願寺の坊官だった。二人とも戦闘指揮に優れていたため「大坂之左右之大将」と呼ばれるようになったという。

  • 鈴木重秀 雑賀の棟梁。通称雑賀孫市
  • 下間頼廉 本願寺の坊官

 

まとめ ー まだまだ他にもたくさんあるので、随時追加します!

他にもまだまだたくさんありそうなので、見つけ次第追記することにします。

 

武田二十四将のような大人数のものもあるのですが、それだけの人数になると、名前を確認するのも大変なので、もう少し調べてからにします(^^;

20年間歴史小説を読んでいる男がお薦めする歴史小説ランキング10(戦国時代編)

歴史小説を読み始めてかれこれ20年以上になります。

最初に司馬遼太郎にハマり、それから山岡荘八、池波正太郎、吉川英治といった大御所を始め、様々な作品を読み漁りました。

 

今回は過去に読んだ作品の中から、自分のお気に入りの作品をランキング形式でまとめました。

 

ちなみに歴史小説と時代小説の違いを大雑把に分けると、

  • 実在の武将が主役で舞台は戦場
  • 架空の人物が主役で舞台は市井

という感じでしょうか。今回は戦国時代をテーマにした歴史小説のランキングになります。

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選択するにあたって一つだけルールを設定

ランキングを作成するにあたって、一つだけルール設定してみました。

 一作家に一作品

作品のおもしろさだけでランキングを作成すると、同じ作家の作品がずらりと並んじゃうので、一人の作家につき一作品だけにしてみました。

 

上下編になっているものや、巻数が多いものでも一作品として扱っています。タイトルが違うもの(富樫倫太郎の軍配者シリーズや、鈴木輝一郎の四人シリーズなど)は、それぞれで一つの作品としてカウントしています。

 

1位 関ヶ原 司馬遼太郎

司馬遼太郎氏の作品で一番好きなのが関ヶ原です。石田三成とその家臣である島左近を軸に、関ヶ原の戦いへと至る物語を描いた作品です。

 

私が初めて読んだのは高校生くらいのときで、それから7-8回くらいは読み直していると思います。

 

この小説の石田三成は異常なまでの正義感を持った武将として描かれています。豊臣恩顧の武将たちが自家の存続を考えて東軍に寝返る中で、ただ一人豊臣政権を維持すべく奮闘します。

 

秀吉の死後、豊臣家のルールを次々に無視し始める家康を誰も注意することができませんでした。それを正面から弾劾したのが石田三成です。そして近江佐和山19万国の身上でありながら、関八州250万余国の家康相手に、あと一歩のところまで持ち込んだのですから、快男児といっていいでしょう。

 

2位 影武者徳川家康 隆慶一郎

徳川家康の影武者説は古くからあります。この作品は徳川家康が関ヶ原で戦死し、家康の影武者を務めていた世良田二郎三郎元信と人物が家康に成り代わって、徳川家を維持しようとします。

 

この小説で敵役として描かれているのは、家康の息子の徳川秀忠です。世良田二郎三郎元信は本多正信や本多忠勝などと協力して、駿河政権を作り上げて江戸政権の秀忠に対抗します。

 

おもしろいのが石田三成の家臣である島左近が関ヶ原で死なずに生き残って、世良田二郎三郎元信に協力することでしょうか。司馬遼太郎の「関ヶ原」では島左近は何度も徳川家康を暗殺しようとする役回りなのですが、この当たりのIfも歴史小説のおもしろさの一つですね。

 

隆慶一郎氏の歴史小説に度々登場する「道々の輩(ともがら)」の描写も印象的です。

 

3位 のぼうの城 和田竜

秀吉による小田原征伐の戦いの一つである忍城の戦いを扱った作品です。

 

この作品はとにかく主人公である成田長親のキャラクターが強烈です。のぼうの城というタイトルの「のぼう」は「でくのぼう」の「のぼう」です。家臣や領民にもそんな呼び方をされるほどのダメな城主(正確には城主の弟)が成田長親です。

 

押し寄せる豊臣軍は石田三成を大将とする2万の軍勢で、守る忍城の人数は500人です。誰もが開城降伏説を唱える中、ただ一人徹底抗戦を主張する成田長親に引きずられる形で、成田家は開戦に踏み切ります。

 

家臣団の奮闘や領民の協力、そして成田長親の才覚?もあり、忍城は落城すること無く終戦を迎えます。それは北条氏の本城である小田原城が落城したあとのことでした。

 

歴史上の成田長親は中々の器量人だったようですが、小説の成田長親は不思議な魅力を持ったヒーローといいっていいでしょう。

 

 

4位 真田太平記 池波正太郎

真田氏というと関ヶ原の戦いのときに徳川秀忠を翻弄し、本戦に間に合わなくさせた真田昌幸や、大坂の陣で徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めた真田幸村が有名です。でもこの小説を読むと、真田昌幸の長男であり、幸村の兄である真田信幸(のちに信之)が如何に優秀だったのかが分かります。真田太平記の本当の主人公はこの人、といってもいいんじゃないかな。

 

他に真田家に仕えた矢沢頼綱など、実力はあったがあまり有名ではない武将も描かれていたり、真田ファンにはたまらない小説です(矢沢頼綱は真田幸隆の弟で、真田昌幸の叔父)。

 

真田十勇士が活躍する小説も数多くあるのですが、その中ではやはり真田太平記を一番に押したいです。霧隠才蔵や猿飛佐助、根津甚八などに相当する人物が登場しますが、名前がそのままではなく、小説独自の名前にアレンジされています。

 

 

5位 織田信長 山岡荘八

山岡荘八氏の小説は人物描写が豊かで、セリフも人間味を帯びたものが多いと思います。徳川家康とどちらをあげようか迷いましたが、本人のキャラクターが強烈な織田信長を。

 

織田信長の守役で諫死した平手政秀という武将が居るのですが、小説の中の信長は、平手政秀の死を知ると、城外に飛び出していって川の水を蹴り上げて、爺!、飲め!、と錯乱気味に叫びます。 

 

信長からすれば、平手政秀を好ましく思いつつも、結局は自分を理解してくれていないという悲哀があったのでしょう。たわけ者といわれつつも、守役の平手政秀への愛情が分かるシーンです。

 

6位 清州会議 三谷幸喜

古畑任三郎などの脚本で有名な三谷幸喜氏の歴史小説です。表紙からしておかしいですね。武将がスマートフォンを持っていたり、傍らに新聞紙が置いてあったりします。

 

歴史小説でも三谷幸喜氏のウイットな演出は健在です。狩りをするシーンで、日和見役の池田恒興が足を痛めた振りをするシーンや、キーマンの一人である織田信長の弟である織田信包の洒脱的なセリフなど、読んでいてニヤリとしてしまいます。

 

7位 金ヶ崎の四人 鈴木輝一郎

登場する4人の性格の描写がおもしろいのが、鈴木輝一郎氏の「四人シリーズ」です。中でも私が好きな作品が、織田信長の金ヶ崎の退き口を扱った金ヶ崎の四人です。

  • 織田信長 神出鬼没。突拍子もないことを言い出し、突拍子もない行動をする
  • 羽柴秀吉 戦に弱いが、銭金の調達に優れている。お調子者。よく漏らす。
  • 徳川家康 常識人だけにいつも損をする役回り。武芸の達人。
  • 明智光秀 常識人のようでいい加減なところも。博打好きで鉄砲の熟練者。

四人シリーズでは共通して、三英傑+明智光秀が登場するのですが、性格は上記のように設定されています。キャラクターが立っている歴史小説といっていいでしょう。

 

金ヶ崎の四人では、いつもの四人に加えて適役として浅井長政が登場するのですが、この浅井長政が怖さを感じるくらい、強者として描かれています。劇中で浅井長政がどこを攻めてくるのかが焦点のひとつで、読んでいてハラハラします。

 

絶妙なタイミングで突如登場する信長と、いくさには弱いが踏ん張るところは踏ん張る秀吉、常識人のようでいて狂気を内包した初老の光秀、そしてそれに振り回される家康の掛け合いは、漫才とまでいうと言い過ぎですが、コミカルなおもしろさがあります。

 

8位 光秀の定理 垣根涼介

モンティ・ホール問題を上手く歴史小説に織り込んだのが光秀の定理です。

 

モンティ・ホール問題については書評を書いたときに、詳しく解説したので一読していただけると嬉しく思います。

 

 

オリジナルキャラクターとして兵法者の新九郎と僧侶の愚息という人物が登場するのですが、この愚息という人物が印象的です。町角で博打をするようないわゆる破戒僧なのですが、話す言葉に説得力があり、不思議な魅力があります。

 

この愚息という人物がモンティ・ホール問題利用した辻博打で生計を立てているのですが、織田信長の前でその博打を疲労するシーンは秀逸ですね。それを理解する信長と理解できない光秀の描写も見事です。

 

ちなみに私はモンティ・ホール問題は、最初はまったく理解できませんでしたw

 

9位 覇王の番人 真保裕一

ホワイトアウトや奪取で有名な真保裕一氏の歴史小説です。私が好きな武将である明智光秀が主人公です。

 

 

歴史小説は歴史を扱っている以上、結末は変わりません。明智光秀は必ず謀反をおこし、本能寺にて織田信長を討ち取るのです。そこに至るまでの経緯や、動機などを織り交ぜた、小説としての物語が作者の腕の見せどころになります。

 

覇王の番人の主人公は明智光秀なのですが、もうひとりの主人公は小平太という忍者です。親兄弟を侍に殺され、侍を殺すために忍者になった小平太が、縁あって明智光秀に仕えることになります。

 

忍者である小平太の目を通すことで、明智光秀が本能寺の変に向かっていく理由が明らかになっていきます。そして本能寺の変の後に黒幕の存在が明らかになります。この小説が歴史ミステリーともいわれる所以ですね。

 

10位 信玄の軍配者 富樫倫太郎

富樫倫太郎氏による軍配者シリーズからは「信玄の軍配者」を。

 

この小説で何よりも印象的だったのは、足利学校の存在です。

 

もちろん実際の足利学校と、小説の中の足利学校は違うのですが、軍師を要請する学校があったという設定はおもしろいですね。北条氏に使える忍者の首領の風魔小太郎が足利学校の出身で、北条氏の軍師になっていたりと、少し突拍子もない設定もありますが、その辺りは小説として楽しめば良いのでしょうね。

 

 

番外 利休にたずねよ 山本兼一

ちょっと変わった構成になっており、おもしろい小説ではあるのですが、主人公が戦国武将ではなく茶人の千利休なので、番外にしました。

 

この小説を読むとどうしても気になるのが「なぜ豊臣秀吉は千利休に切腹を命じたのか?」です。秀吉の懐刀とまでいわれた知恵者の利休をなぜ殺したのか。

 

これも様々な説があり、いろんな人が意見を述べているのですが、結論は出ていません。戦国史の謎の一つとしてこれからも続いていくのかもしれませんね。

 

 

まとめ ー 一番は関ヶ原。初心者にはのぼうの城を。

一番のお薦めはやはり「関ヶ原」です。あまりにも有名な作品なので、もう読んでいる人も多いかもしれません。

 

何度読んでも尽きることのない魅力が関ヶ原にはあります。山内一豊と堀尾忠氏とのエピソードなども興味深いです。司馬遼太郎氏によって印象的な話に作り上げられていますが、堀尾家も関ヶ原後には12万石から24万石へ倍増されているので、山内一豊だけが評価された訳ではありません。でも、これはまあ、それほど深く突っ込むところではないかな。

 

戦国時代を扱った歴史小説を、まだ一度も読んだことのない人であれば、お薦めは「のぼうの城」です。

 

忍城攻防戦という小田原征伐の地方での争いなのですが、主人公の成田長親のキャラクター設定もあって、非常に読みやすく、かつおもしろい作品に仕上がっています。

 

個人的に好きなのが鈴木輝一郎氏の「四人シリーズ」ですね。

もうそれぞれが漫談しているかのような、キャラの立った四人の会話が実に楽しいです^^

センゴク権兵衛9巻 仙石秀久が主役の漫画も最終章。戸次川の戦いに突入

「センゴク権右衛」は豊臣秀吉の家臣、仙石秀久を主人公にした物語です。人気があるようで第一部、第二部、第三部と連載が続き、現在は最終章である第四部に突入しています。

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9巻の表紙は仙石秀久、ではなく、相手役の島津家久ですね。

 

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右側が主人公の仙石権兵衛です。左側は・・・誰だったかな(^^;

 

センゴク権兵衛の概要。第四部までリリースされている人気作品

シリーズ累計発行部数750万部を突破し、第四部まで連載が続いているので、人気作品といっていいでしょう。あまり有名でもない、しかも戸次川の戦いにおいて大失態を犯した仙石秀久という人物が主人公なのに、これだけの人気作品に仕上げたのは作者の宮下英樹氏の力量に負うところが大きいのでしょうね。

 

第一部 「センゴク」
信長への士官。信長による美濃攻略から姉川の戦い、浅井朝倉の滅亡まで。


第二部 「センゴク天正記」
信長包囲網。長篠の戦いから甲州征伐。武田家の滅亡まで。


第三部 「センゴク一統記」
本能寺の変から山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなど秀吉による天下統一への道のり


第四部 「センゴク権兵衛」
秀吉による四国征伐、九州征伐。天下統一まで?

 

私は第一部の無印の「センゴク」から全て購入し読んでいます。新刊をデフォルトで購入するマンガの一つでもあります。

 

「センゴク権兵衛」が第四部にあたり、この第四部が最終章とされています。内容的には秀吉による四国征伐、九州征伐ですね。このあとに小田原城の戦いがあるので、それが物語のラストになるのではないでしょうか。

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仙石秀久という武将について

仙石秀久。通称は権兵衛。信州小諸藩の藩祖となるこの武将は、あまり好きではない武将の一人でした。

 

美濃の地侍の家に生まれ、勇壮な風貌だったことから信長に気に入られ(信長にはこの種のエピソードがいくつかあります)、戦場で数々の武功を立てます。ただ武功といっても武将としてではなく、個人としての槍働きが主でした。

 

豊臣秀吉が仙石秀久には大封を与えず、淡路や讃岐など小国の領土の主にしたのも、秀久にその才能がないと考えていたからかもしれません。


仙石秀久は秀吉の命で九州征伐の先陣として九州に乗り込みます。秀久は軍監(戦闘部隊の指令役)としての役割を与えられ、四国勢を統括していました。

 

戸次川の戦いで部隊編成

戸次川の戦いにおいて、豊臣秀吉は豊臣軍本体の到着を待つように仙石秀久に指示したといわれています。ところが秀久はその命令に従いませんでした。軍監を任されたことにより、軍功を立てるために焦ったともいわれています。

最終的に仙石秀久は秀吉から領土を全て取り上げられ、高野山に追放されます。

 

戸次川の戦いで秀久が率いていた軍隊を二つに分けてみます。

 

仙石秀久
十河存保

 

長宗我部元親
長宗我部信親

 

秀吉における四国征伐で、秀吉側として活躍したのが仙石秀久と十河存保であり、討伐される側だったのが長宗我部親子ですね。

 

この中でキーマンを上げるとすれば十河存保でしょう。三好氏の一族であり「三好義堅」という名乗りでも知られています。三好氏は阿波を地盤とする一族で、長宗我部氏の四国統一に激しく抵抗しました。

 

十河存保は長宗我部氏と長く争ってきただけあって、長宗我部氏と仲が悪かったことは否めません。猛将であったことは確かですが、土佐の一郡から身を起こし、四国全土を統一した長宗我部元親との力の差は歴然としています。元親に何度も破れ、最終的には阿波、讃岐といった三好氏伝来の領土を失い、豊臣秀吉を頼って落ち延びます。

 

当然のことながら戸次川の戦いでも反目仕合い、長宗我部元親が主張した意見に反対します。仙石秀久の無謀な渡河作戦に同調して、部隊を壊滅に追い込んでしまいます。

 

この部隊編成自体に無理があったような気がするのですが、その辺りは海千山千の秀吉なので、何か意図があったのかもしれません。

 

ひょっとしたら秀吉は仙石秀久が失敗することを見越して、長宗我部親子が二人とも戦死することを狙っていたのかもしれませんが、そこまで考えるのは穿ち過ぎた見方なのでしょうね。

 

ちなみにマンガの「センゴク権兵衛」では、評定に桑名親光という武将が加わっていますが、桑名親光は信親付きの長宗我部家の家臣だったので、これはマンガとしての演出のためでしょう。

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まとめ ー 史実とは別の魅力があるセンゴク権兵衛

・・・えー、マンガの紹介なのに、史実を交えて色々と書いてしまいました。戦国オタの暴走として笑ってやってください。

 

センゴク権兵衛には史実の仙石秀久とは別の魅力があります。センゴク権兵衛というキャラクターが確立されているといっていいでしょう。だからこそ私も書い続けていますし、これからも新刊が出るたびに購入することは間違いありません。

 

という、とって付けたようなフォロー(^^;を入れたところで、この辺で。

真田幸村、大谷吉継、高橋紹運、吉川経家・・・様々な戦国武将の最期

戦国武将の最期は様々です。

今回は主君や友情のために死んでいった武将についてまとめてみました。

 

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今回の記事を書くにあたり、いくつか歴史小説を参考にさせていただきました。そのため史実とは異なる可能性があることをご了承いただければ幸いです。

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遠藤直経 信長暗殺にあと一歩まで迫った浅井家の軍師

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(出典 Wikipedia)

遠藤喜右衛門直経は浅井家の軍師として活躍した人物です。

姉川の戦いで浅井朝倉軍の敗北が決定的になったあと、織田軍の鎧を着込み、戦死した味方の武将の首を持って、織田信長の本陣に乗り込みました。織田信長まであと数十メートルの距離まで迫ったのですが、相手武将に見破られて斬首されたといわれています。

 

詳しくは戦国時代の軍師について書いた記事に記載していますので、一読いただければ幸いです。

 

 

 

真田幸村 その言葉は400年を経て残った

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(出典 Wikipedia)

真田左衛門佐幸村(信繁)が大阪の冬の陣で、真田丸と呼ばれた出城を築き、活躍したことは有名です。2016年の大河ドラマにもなりました。

 

真田幸村の名セリフは、真田丸も堀もなくなった大阪夏の陣で発せられました。道明寺の戦いで真田幸村は殿を引き受け、追撃してきた伊達政宗の軍勢を撃退します。

 

引き上げるときに徳川軍の追撃が全くなかったことから、幸村は「関東100万を呼号すると云えども、一個半個の男児もおらぬか」と言ったといわれています。この言葉は、400年以上も経た今も伝わっています。

 

幸村は翌日の天王寺の戦いで、徳川家康の本陣に何度も突撃を行い、家康自身に自害を覚悟させたほどでした。

その後、数に劣る真田勢は多方面から攻撃を受け、次第に戦力を減らします。幸村も最後は松平忠直の部隊に所属する武将に討ち取られました。朝からの戦闘で既に疲労困憊だった幸村は「我の首を手柄にせよ」といって動かなかったといわれています。

 

真田幸村の戦いぶりを評した「真田日本一の兵(さなだはひのもといちのつわもの)」という言葉も後世まで語り継がれました。

 

仁科盛信 武田家の最後の砦

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(出典 Wikipedia)

武田家の滅亡が間近に迫ったとき、ほとんどの武将が抵抗せずに逃亡したり、離反したりしました。

  • 木曽義昌・・・織田軍に寝返り
  • 保科正直・・・飯田城を放棄
  • 武田信廉・・・大島城を放棄
  • 穴山信君・・・織田軍に寝返り
  • 小山田信茂・・・織田軍に寝返り

その中で武田勝頼の異母弟であり、高遠城城主の仁科五郎盛信のみが織田軍を相手に激闘を繰り広げました。織田軍を何度も撃退し、織田信長のいとこである織田信家を討ち取っています。

盛信は最後まで降伏せず、高遠城落城ととも自刃しました。26歳の若さでした。

 

盛信は領民に慕われていたらしく、盛信の遺体が埋められた山は「五郎山」と呼ばれ、その法要は現代に至っても毎年続けられています。

 

吉川経家 城兵の助命を条件に自刃した客将武将

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(出典 鳥取ArtDBProject 吉川経家公象)

鳥取城に籠城し、最後は城兵の助命嘆願を条件に切腹した吉川経家ですが、鳥取城の城主ではありませんでした。

 

鳥取城の城主は山名豊国という人物でしたが、戦いが始まると織田軍に単身で投降してしまいます。残った家臣団からの要請を受け、毛利両川の一人、吉川元春から派遣されたのが一族の吉川経家でした。

 

吉川経家は客将武将でありながらも、黒田官兵衛の策といわれる兵糧攻めに200日以上抗戦しました。最後は力尽きて、自身の切腹を条件に城兵の助命を羽柴秀吉に申し出ます。

秀吉は経家が客将武将であることを知っており、経家ではなく戦闘の継続のために経家の派遣を要請した家臣の自刃を要求しますが、経家は受け入れませんでした。

 

結局、経家は城兵の助命を条件に切腹します。

その首が届けられたときに秀吉は「哀れなる義将なり」と落涙したと伝えられています。

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鳥居強右衛門 磔にされながらも援軍の来着を叫ぶ

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(出典 Wikipedia 長篠城を脱出する鳥居強右衛門)

鳥居強右衛門は徳川家康の家臣である鳥居氏の一族だといわれていますが、出自はよく分かっていません。

というのも、鳥居強右衛門が歴史に名前を現すのは長篠の戦いだけだからです。

 

長篠の戦いの発端となった長篠城の攻防戦は、当初は武田軍が優勢でした。武田軍1万5千は長篠城を完全に包囲します。長篠城の城兵は約500であり、落城は必至の状態でした。

 

城主の奥平貞昌は、家臣である鳥居強右衛門を徳川家康への援軍要請の密使として派遣します。鳥居強右衛門は無事に包囲をくぐり抜け、徳川家康の元に到着します。そこには既に織田信長率いる3万もの軍勢が到着していました。

 

援軍が既に近くまで到着していることを知った強右衛門は、家康が止めるのもきかず、援軍到着を知らせるために再度、長篠城に戻ろうとします。

ところが、今度は包囲していた武田軍に捕まってしまいます。

 

援軍が既に到着していることを知った武田軍は、助命を条件に、

  • 援軍は到着していない
  • 降伏したほうがいい

と城方に呼びかけるように強要し、強右衛門もそれを了承しました。

 

ところが、強右衛門は実際にはまったく逆のことを叫びました。

「援軍はあと2、3日で到着する。援軍は数万の大軍である。それまでの辛抱だ!」

 

強右衛門はその場で槍で串刺しにされましたが、長篠城は強右衛門の言葉に勇気づけられ、長篠の戦いが終わるまで落城することなく持ちこたえました。

 

馬場信春 信長公記で比類なしと評された武田四天王

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(出典 Wikipedia)

武田四天王の一人である馬場美濃守信春は40数年間の間、70回以上もの戦いに参加しましたが、かすり傷一つ負うことがありませんでした。そのため「不死身の鬼美濃」と呼ばれたといわれています。

余談ですが、徳川四天王の一人である本多忠勝にも同様のエピソードがあり、両名とも優れた合戦師であることが伺えます。

 

馬場信春は長篠の戦いで、味方の軍勢が劣勢になっても組織的な戦闘を続け、ただ一人戦線を維持します。味方部隊が撤退を始めても動かず、勝頼が撤退し始めたときにようやく自身も撤退を始めます。そのときに馬場信春は快活に笑いながら「その判断はよし」と言ったといわれています。

 

撤退戦では自身の部隊を高台に配置し、追撃する織田軍を何度も撃退します。部隊の死傷者が増え、戦闘継続が難しくなったあとは、自分の部隊をも撤退させます。

そしてただ一人、敵中に取って返し「我こそは馬場美濃である。討ち取って手柄にせよ」と織田軍に呼びかけます。そして抵抗することなく、複数の槍を受けて討ち死にしました。

 

その働きは一次資料として名高い「信長公記」で「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評されました。

 

伊達輝宗 息子政宗に自分を討たせた粟ノ須の戦い

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(出典 Wikipedia)

伊達政宗の実父、伊達輝宗は政宗に劣らず優秀な武将でした。内政においては遠藤基信や鬼庭良直を重用し、戦いでは相馬氏から丸森城を奪い返すなど、伊達家の支配地域を着実に広げました。

 

そんな伊達輝宗が亡くなった粟ノ須の戦いは、輝宗が嫡男の政宗に家督を譲った後の1585年に起きました。

 

伊達政宗に破れ降伏した畠山(二本松)義継が伊達輝宗を拉致したのです。

鷹狩りをしていた政宗は現場である阿武隈川に駆けつけますが、父である輝宗が拉致されているため、戦闘を仕掛けることができません。

 

阿武隈川を渡れば畠山領であり、伊達家としては手が出せなくなります。実父が囚われたとなると、今後の外交で伊達家にとって不利な状況に追い込まれることは目に見えています。

 

そのときに輝宗は「自身もろとも撃て」と叫び、それを聞いた政宗は迷った末に一斉射撃を行います。輝宗は伊達家を救うために、畠山義継を道連れにこの世を去りました。

 

足利義輝 剣豪将軍と呼ばれた足利第十三代将軍の最後

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(出典 Wikipedia)

「剣豪将軍」で検索すると、トップに足利義輝が表示されます。いまや足利義輝の異名として定着しているといっていいでしょう。

足利義輝は塚原卜伝から直接剣術の指導を受け、奥義「一之太刀」を伝授されるほどの腕前でした。

 

政治においても自身が直接統治しようしたため、傀儡政権を望む松永久秀、三好三人衆と衝突します。松永・三好三人衆は足利義輝を暗殺しようと企み、1万(一説には2,000)もの兵を動員します。

 

御座所を松永・三好連合軍に包囲された義輝は、攻め込んできた相手を次々に切り倒します。童子切安綱、三日月宗近、鬼丸國綱など、足利家伝来の数々の名刀を取り出し、それを畳に何本も突き刺して準備していたといわれています。血糊で刀の切れが鈍ると、突き刺していた名刀と取り替えて、また相手を切り倒すという獅子奮迅の戦い振りでした。

 

寄せ手は剣豪である義輝を討ち取ることが出来ず、最期は四方から畳を立てて盾として義輝に刀を振るえないようにした上で、畳越しに槍で突き刺して倒したといわれています。

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高橋紹運 島津軍を相手に戦い抜いた大友家の名将

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(出典 Wikipedia)

衰退する大友家を支え続けた立花道雪は雷神との異名をとりましたが、同じく大友家を支えた高橋紹運は風神と呼称されました。

 

その最期は岩屋城の戦いで、わずか700名余の城兵に対して、島津軍は5万を超える大軍でした(一説には2万)。

籠城戦は半月におよび、戦の名手であった高橋紹運は島津軍の攻撃をことごとく退けます。島津軍の被害は甚大で5,000名近くにのぼりました。

 

その間、島津軍は高橋紹運に何度も降伏勧告を送ります。戦術上の理由もありますが、紹運があまりにも名将だっために、その死を惜しんだともいわれています。

驚くべきことに降伏勧告は、味方の豊臣秀吉の軍師である黒田官兵衛からも送られました。黒田官兵衛も高橋紹運の器量を惜しみ、撤退するように伝えましたが、高橋紹運は使者を丁重にもてなしながらも降伏勧告を断っています。

 

半月の籠城戦ののち、岩屋城は落城しました。高橋紹運を含め籠城した700余名全員が討ち死にするという壮絶な最期でした。

 

岩屋城は落城しましたが、島津軍の被害も大きく、大友領へ再度進軍するためには部隊の立て直しが必要でした。また半月もの間、岩屋城が持ちこたえたことで、豊臣軍20万が到着し、結果として大友家は存続することができたといえるでしょう。

 

大谷吉継 友情に関ヶ原で答えた名将

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(出典 Wikipedia)

最後はやはり大谷吉継を取り上げたいと思います。

 

関ヶ原の戦いで活躍した大谷吉継は、当初は石田三成の挙兵に反対しました。徳川家康とも友好関係にあった吉継は、石田三成の嫡男である石田重家を連れて徳川家康の東征に従軍する予定でした。

ところが石田三成から挙兵計画を打ち明けられて、友人であった吉継は三成に味方することを決意します。

 

関ヶ原では、小早川秀秋の去就が定まっていないことを見抜き、裏切ったときのために一部の部隊を温存さえしています。

 

小早川秀秋の裏切ったあとは、温存部隊を投入して小早川秀秋の軍勢を一時的に撃退します。その戦いぶりは徳川家康が、小早川秀秋がこのまま敗退するのでは、と取り乱したくらいでした。

 

大谷吉継の奮戦振りは、歴史作家の大家である司馬遼太郎氏の「関ヶ原」の描写が素晴らしいと思います。私の好きな一説でもあります。

「やれ、金吾なる者は、千載の醜名を残したぞ。裏切り者を崩せ。突けや。雑兵には目もくるるべからず。いちずに金吾が旗をめがけよや。金吾を討て、金吾を地獄に落とすのに牛頭馬頭邏卒の手をば借りるべからず。汝らが地獄の邏卒の先駆けをせよ」

と喚きつつ敵陣へ乗り入れてゆく吉継の声、姿は、鬼神が乗り移ったかのごとくであった。大谷勢は、死兵と化した。

金吾というのは小早川秀秋の官職の唐名です。司馬遼太郎氏は関ヶ原の戦いで、名将を上げるとすれば大谷吉継こそそうであろう、とも記載されています。

大谷吉継は友情に殉じ、関ヶ原にて35年の生涯を閉じました。

 

まとめ ー 様々な戦国武将の最期

戦国武将の最期をまとめるにあたって、自分の好きな武将を選択しました。他にも印象的な武将は数多く存在しますが、そこは個人のブログなのでご容赦いただければと思います。

 

また最期が畳の上だからといって、武将の評価が変わるわけでもありません。

 

黒田官兵衛は余生は、近所の子どもに読み書きを教えながら過ごしたといわれていますが、彼の関ヶ原の時期の九州での活躍は、名将といっていいものでしょう。

 

関ヶ原の戦いで西軍最大の1万7千の軍勢を率いた宇喜多秀家は、討ち死にせずに八丈島へ配流されました。

 

秀家の正室が加賀百万石前田家の豪姫だったこともあり、大名に復帰する機会もありましたが、秀家はそれを断ったといわれています。

なぜ断ったのかは、当時の秀家になってみないと分からないでしょう。

 

秀家は八丈島で83歳で世を去りますが、時は既に徳川4代将軍徳川家綱の治世でした。関ヶ原の戦いに参加した武将で、最も長生きしたのは宇喜多秀家です。

同時期の武将が姿を消していく中、配流された地で誰よりも長く生きた宇喜多秀家も、また見事な最期だといっていいのかもしれません。

本能寺の変の黒幕は存在したのか? 可能性のある人物を7人をピックアップ

本能寺の変はその前後の状況から、明智光秀が単独で行動を起こしたことはほぼ間違いありません。ただ黒幕がいた可能性はあります。

黒幕としてよく名前が上がるのは、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)や徳川家康ですが、他に可能性がある人物は居るのでしょうか。

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今回は黒幕が居たかどうかについてや、取り上げる人物が黒幕として妥当かどうかについては考察せず、可能性があると思われる人物を7人ピックアップしてみました。

 

羽柴秀吉説 中国大返しが実現できた理由は?

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(出典 Wikipedia)

 

本能寺の変の黒幕として真っ先に名前が上げられるのが羽柴秀吉です。 

その理由は、中国大返しと呼ばれる備中高松城から京都までの大規模な軍隊の移動を成功させたことにあります。

 

通常では不可能と思われる200kmもの行軍を短期間で実現できたのは、秀吉が事前に光秀が謀反を起こすことを知っていたから、と考えれば不自然ではありません。

 

そして何よりも光秀を討ったあとで、誰が天下を取ったのかを考えれば、秀吉の名前があがってくるのはある意味当然なのでしょう。

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徳川家康説 変の後に甲信地方を獲得

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(出典 Wikipedia)

黒幕を考える時に重要な要素のひとつに、変の後に利益を得た人物、というのがあります。

本能寺の変のあとに甲信地方を併呑して領土を広げた徳川家康も、黒幕として考えて不自然ではないでしょう。

 

家康は本能寺の変の時は堺見物をしていました。

変の発生後は、自分の領土である三河を目指して移動するのですが、そのときも無事に三河まで辿りついています。

 

家康に同行していた武田家の元家臣である穴山梅雪は、自分の領土まで帰ることができず、途中で土民に殺されました。穴山梅雪が帰れず、家康が帰れたのは事前に謀反を知っていて準備していたから、という考え方もできます。

 

長宗我部元親(四国)説 手紙の発見により可能性が高まる

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(出典 Wikipedia)

本能寺の変が起こったことで危機をまぬがれたのは、四国を本拠地としていた長宗我部元親です。

 

当時、織田家の5人の司令官の一人、丹羽長秀が大坂で四国征伐のための渡海準備中でした。信長の横死がなければ、織田家の四国征伐は実行されていたでしょう。

 

以前は四国説は可能性は薄いといわれていましたが、近年は手紙が発見されたことにより、その可能性が高まっています。

 

明智光秀の家臣斎藤利三が長宗我部元親と緊密に連絡を取り合っていたことも判明しています。長宗我部元親が黒幕といういうよりは、長宗我部と関係が深かった斎藤利三が明智光秀を動かしたのかもしれませんね。

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足利義昭説 陰謀将軍が備後の鞆の浦から

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(出典 Wikipedia)

陰謀将軍」の異名をとり、信長包囲網を築き上げた室町幕府最後の将軍である足利義昭は、本能寺の変のときは備後の鞆に在住していました。

 

信長による京都追放後は、歴史の教科書からは姿を消してしまう足利義昭ですが、鞆でも諦めることなく策謀を続けていました。将軍ということもあり、鞆での暮らしぶりは悪くはなく鞆幕府という呼び名まであります。

 

明智光秀は確証はないものの足利義昭に仕えていた時期があります。

 

そして何よりも本能寺の変の翌日に明智光秀が足利義昭に手紙を書いています。実際の宛先は小早川隆景宛ですが、足利義昭に毛利氏と共同して羽柴秀吉を討って欲しい、という意味の記載があります。

この手紙の存在は「川角太閤記」に記載されているのですが、原本は残っていません。真実は不明ですが、もし手紙が実在するのであれば、足利義昭黒幕説も真実味を帯びてくるでしょう。

 

本願寺教如説 仏敵 第六天魔王信長

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(出典 Wikipedia)

織田信長の最大の敵は、今川義元でも浅井朝倉でも武田信玄でもなく、石山本願寺を本拠地とする一向宗だといわれています。

 

本能寺の変の当時は信長は一向宗と既に和睦していましたが、その和睦に最後まで反対したのが、本願寺第12世宗主の本願寺教如でした。

 

織田信長はキリスト教を優遇し、仏教については自ら仏敵である第六天魔王を名乗ったという逸話もあるくらい、仏教を敵視していました。

 

教如は穏健派だった父顕如とは違い、信長を最後まで敵視したと伝えられています。石山本願寺から退去後は紀伊に移住していましたが、そこから仏敵信長を討つための策謀をめぐらせたのかもしれません。

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安国寺恵瓊説 恐るべき慧眼の持ち主

毛利氏の外交僧の安国寺恵瓊は、一枚の手紙で後世に名を残しています。

 

「信長の治世は5年か3年は持つだろう。来年辺りには公家になるかもしれない。そののち仰向けにひっくりかえるかもしれない。藤吉郎(羽柴秀吉)は優れた人物だ」

 

この手紙が書かれたのは1573年です。本願寺の変が起きる9年も前に、それを予言するような発言をしているのです。恐るべき慧眼の持ち主といっていいでしょう。

 

四国の長宗我部のように毛利氏も織田家に攻められて窮地にありました。

安国寺恵瓊が過去の自分の発言を実現させるべく動いたのかもしれません。

 

朝廷・公家説 捨て去ることのできない朝廷説

織田信長は朝廷を軽視していたのかどうかは議論が別れています。

朝廷を手厚く保護した実績もありますが、右大臣を辞した後には何の官職にもつかず、朝廷からの打診にも明確な返答をしていません。

 

安土城の城下には天守閣の近くに御所を模したような建物があり、自らを礼拝させたともいわれています。

 

正親町天皇との仲もあまり良くなかったとようです。

もし信長が正親町天皇を退位させ、自らがその位置に就くようなことを考えていたとしたら、勤王の志を持っていたといわれる光秀を、朝廷が動かした可能性はあるでしょう。

 

まとめ ー 黒幕は居たのかどうかは・・・?

 

策謀において用意周到だった光秀ですが、本能寺の変だけは事前に準備したような様子がありません。娘婿だった織田信澄にも連絡していませんし、盟友といわれる細川幽斎や与力大名の筒井順慶にも相談したような形跡は見受けられません。

 

それゆえに本能寺の変は光秀の単独ではなく、誰か黒幕が居たのではないかとずっといわれ続けています。でも現時点では居たのかどうかは判明していません。

 

歴史ヲタとしては妄想を続けられるので、今の状況でも楽しいのですが、心のどこかで新しい資料が発見されて真実が分かるような展開も望んでいたりします。

 

本能寺の変の真実が解決するのかどうかは、この先に資料が発見されるかどうかですね。

 

愛宕百韻に隠された謎。光秀が連歌に込めた真実は?

歴史好きなら誰でも知っている「愛宕百韻」という言葉があります。

愛宕百韻とは本能寺の変の直前に、京都の愛宕山で行われた連歌のことです。明智光秀が参加し、発句を読んだことで知られています。その発句が本能寺の変を意図しているのではないかといわれているのです。

 

 

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愛宕百韻で光秀が読んだ発句

まずその光秀が読んだといわれる発句を記載します。

「時は今天が下しる五月かな 光秀」

普通に解釈すれば「今は正しくこの世は五月そのものである」となり、なんの問題もない、のどかな句になります。連歌が開催されたのは5月24日(もしくは5月28日)なので、時期的にも不自然はありません。

 

この句を本能寺の変と絡めて解釈すると下記のようになります。

「土岐氏が今、天下を支配する。そんな五月になる」

明智氏は南北朝時代の美濃国の守護だった土岐頼貞の九男、土岐頼基の後裔だといわれています。

 

時と土岐をかけて、光秀が天下を狙っていることを暗に歌に込めたのではないか、といわれているのです。

 

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信長を祝ったのか土岐氏の現状を嘆いたのか

愛宕百韻で光秀が読んだ発句には違う解釈もあります。

もっとも順当な解釈は、織田信長の世を祝うものだという説です。連歌が開催された理由は戦勝祈願です。当時、羽柴秀吉が中国地方で毛利氏と対峙しており、明智光秀もその援軍のための準備中でした。織田信長自身も参戦する準備を整えていたといわれています。

 

戦勝祈願のために連歌が開かれたとすると、発句の解釈は下記のようになります。

「もうすぐ(信長公が)天下を支配する。そんな五月になる」

純粋に信長の天下統一を寿いだ内容で、何の問題もないことになります。

 

別の解釈もあります。

「本能寺の変 431年目の真実」という著書で有名な明智憲三郎氏の説です。

 

明智憲三郎氏はこの発句そのものが書き換えられた句だと主張されています。

「時は今天が下なる五月かな」

上記が明智憲三郎氏が主張されている句になります。

違いは「下しる」と「下なる」だけなのですが、ここが違うと意味が大きく変わってきます。

「下しる」の「しる」には治めるという意味があり、「下」という文字と合わせて「天下を治める」という意味になります。

「下なる」の「なる」だと単純に降るという意味になり、天を雨と解釈して下記のようになります。

「土岐氏は今、この降り注ぐ五月雨に叩かれているような苦境にいる五月である」

(出典 本能寺の変 431年目の真実」)

明智憲三郎氏の解釈でも特に不自然はありません。土岐氏の苦境を歌っただけで、謀反の示唆も何もないのです。

 

まとめ ー 本能寺の変を示唆するものはなかった?

様々な解釈のある愛宕百韻ですが、真っ当に考えれば本能寺の変を示唆するものはないといえるでしょう。

 

連歌師として有名な里村紹巴は、様々な武将と密接な関係にありました。織田信長はもちろん羽柴秀吉、明智光秀、徳川家康、三好長慶、細川藤孝などと交流があったといわれています。

 

里村紹巴がそれだけ交友関係を広げることができたのも、政治的な偏りを持たないようにしていたからだといわれています。だからこそ利害関係のある様々な武将と交流できたのです。

 

武将の方も当然のことながらそれを熟知していました。

だからこそ、味方かどうかも分からない連歌師を前に、光秀が心情を句に込めたとは考えにくいのです。

 

愛宕百韻の光秀にまつわる逸話は他にもあります。

  • 本能寺の堀の深さはどれくらいか、と口走った。
  • 出されたチマキを上の空で皮をむかずに食べた。

光秀が心身ともに疲労していて、謀反を考えていた可能性を示唆する逸話です。歴史小説好きとしては、発句が本能寺の変を示すものだと解釈して、合わせて楽しめるのですが・・・この辺りはロマンの領域かもしれませんね。

 

本能寺の変そのものの考察については、別記事がありますので、そちらを参照していただければ幸いです。

 

イケメン武将10選!美形伝説が残る戦国武将たち

幕末であれば写真が残っている人物もいるのですが、戦国時代になると美形だったかどうかは資料に頼るしかありません。

 

ゲームに登場する戦国武将たちは、そのほとんどがイケメンに描かれていますが、それがユーザー向けであることは説明する必要もないでしょう。では、現実の武将は美形だったのでしょうか。

 

今回は様々な資料を基に、美形伝説のある戦国武将をピックアップしてみました。

 

 

美形伝説が伝わる戦国武将たち

織田信長

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(出典 Wikipedia)

織田信長をはじめ、織田氏一族は美形だったといわれています。信長の妹であるお市は戦国時代最高の美女といわれていますし、織田信長の実弟である織田秀孝は、一次資料として評価の高い「信長公記」で美男子だったとの記述があります。

 

信長自身の容姿については想像するしかありませんが、ルイス・フロイスが書いた「日本史」には信長の容姿を連想させるような記述があります。

  • 背は中くらい
  • ヒゲは薄い
  • 声がかん高い
  • 華奢な体型

信長の肖像画はWikipediaにも掲載されている長興寺の像が有名ですが、他には神戸市立博物館に所蔵されているものもあります。

www.google.com

鼻筋が通っていて、なかなか美形だと思うのですがいかがでしょうか。

 

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明智光秀

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(出典 Wikipedia)

明智光秀も美男子だったといわれています。

肖像画でもなかなかのハンサムですね。晩年は髪が薄かったようですが、若い頃は貴公子といっていい風貌の持ち主だったようです。

 

ルイス・フロイスの「日本史」に、光秀の子女は西洋の王侯貴族に劣らぬくらい美形だった、という記述があります。実際に光秀の娘である珠子(たまこ。細川忠興に嫁いだ細川ガラシャ)は絶世の美女だったといわれています。

 

井伊直政

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(出典 Wikipedia)

戦国時代、衆道は武将の嗜みの一つでした。有名なところだと織田信長と森蘭丸(乱丸)の組み合わせでしょうか。

 

徳川家康はあまり衆道を好みませんでしたが、井伊直政とは衆道の関係だったといわれています。井伊直政があまりにも美男子だったために家康の性癖さえ捻じ曲げたのかもしれませんw

 

井伊直政は同僚の武将から夜這いを受けたとの逸話もあり、美男子だったことは間違いないようです。

 

肖像画については・・・コメントを控えさせていただきます(^_^;

 

松永久秀

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(出典 4gamer.net)

別名は松永弾正。

戦国時代の三大梟雄の一人に数えられ、戦国時代最悪の武将ともいわれる松永久秀ですが、美男子であったとの言い伝えが残っています。

 

元々は摂津国の土豪の出身ですが、美男子で教養があり、立ち居振る舞いが美しかったことから、三好家内で立身出世したといわれています。

 

ただ、松永久秀の悪行があまりにも凄かったため、ゲームなどに登場する久秀はどうしても悪人面になっています。

松永久秀は三好長慶に取り立てられて出世したのですが、その三好家を自分のものにするために数々の悪行を重ねています。

  • 三好長慶の跡継ぎの三好義興を暗殺(疑い)
  • 三好長慶の妻を側室に
  • 三好長慶の実弟の安宅冬康を讒言により誅殺させる
  • 三好長慶の実弟の十河一存を暗殺

さらには第13代将軍の足利義輝を暗殺し、奈良の大仏殿を焼き払い、信長には二度背き、最後には平蜘蛛の茶釜とともに爆死したという「梟雄」という言葉以外が当てはまらない武将です。

 

小早川隆景

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(出典 Wikipedia)

吉川元春と並ぶ毛利両川の一人、小早川隆景も美貌の持ち主だったといわれています。

 

「陰徳太平記」には「又四郎隆景は、容姿甚だ美なりしかば、義隆卿 男色の寵愛浅からずして」との記述があります。大内義隆は衆道を好んだといわれていますが、それを差し置いても、隆景の美貌が伝わってくるような記述ですね。

 

ただ「陰徳太平記」が書かれたのは1700年台で、隆景が死んでから100年以上経過しています。本当に隆景が美形だったかどうかは、判断が難しいところです。

 

高坂昌信(春日虎綱)

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(出典 コーエーテクモゲームズ)

武田四天王の一人、高坂昌信も美形伝説があります。

「甲陽軍鑑」には元々農民の出身だった春日源五郎、のちの高坂昌信が美童だったことから武田信玄の奥近習として召し抱えられたとの記述があります。

 

武田信玄は女性も衆道も嗜んだ人物ですが、高坂昌信との関係は深かったらしく、高坂昌信宛に浮気を詫びる手紙が現存しています。

 

肖像画の高坂昌信は面頬(めんぽう)をしているので、ゲームに登場する昌信も面頬をしているものが多いですね。

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長宗我部元親

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(出典 Wikipedia)

四国を統一した戦国大名の長宗我部元親は、子どもの頃「姫若子」と呼ばれていました。実はこれは女性のような美しさからそう呼ばれたのでありません。

 

色白で背が高く、読書ばかりしていたことから、軽んじる意味で付けられたあだ名だといわれています。

ところが戦場にでると大活躍したことから、家中でも認められ、またたく間に土佐を平定、最終的には四国統一まで成し遂げてしまいます。

 

長男の長宗我部信親も、背が180cm以上あり、色白でイケメンだったそうなので、親子で美形だったのかもしれませんね。

 

直江兼続

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(出典 戦国無双4)

直江状で有名な直江兼続は「名将言行録」や「常山紀談」に、背が高く弁舌が爽やかで容姿は並ぶものがない、という意味の記述があります。

 

上杉謙信の姉である仙桃院が、幼少の頃の直江兼続が美童だったのをみて、上杉景勝の近習に推薦したという逸話もあります。

 

「名将言行録」や「常山紀談」は江戸期に成立した書籍ということもあり、信憑性には少し疑問があるのですが、正義感の強くハンサムな義将、というイメージは直江兼続にピッタリではないでしょうか。

 

片倉重長

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(出典 戦国IXA)

伊達政宗の右腕といわれた片倉景綱の嫡男、片倉重長もイケメンだったといわれています。

 

父に劣らぬ才能の持ち主であり、父親と同じ小十郎という字(あざな)を持つことから鬼小十郎ともいわれました。大坂の陣では伊達軍の先鋒として真田幸村と激戦を繰り広げています。

 

重長はあまりにも美形だったため、関ヶ原の戦いで有名な小早川秀秋にストーカーのごとく付きまとわれたという逸話があります。

 

木村重成

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(出典 Wikipedia)

豊臣秀頼に仕えた木村重成もイケメン武将といっていいでしょう。

 

見た目も爽やかな好青年だったといわれていますが、木村重成の場合は何よりもその行動が印象的です。

 

木村重成は豊臣秀頼の使者として、徳川家康と会談したことがあります。会談の目的は家康から秀頼への誓詞を受け取るためだったのですが、受け取った時に誓詞の血判が薄い、といって満座の中、家康に突き返したのです。

 

周りにいた武将たちは家康が激怒するのではないかと固唾をのみましたが、家康は苦笑いして、年をとると血が薄くなって困る、と言いつつ誓詞に再度血判を押したといわれています。

 

木村重成の度胸の良さが分かるエピソードですね。

 

木村重成

(出典 信長の野望 ~俺たちの戦国~ 公式Twitter)

歴史ゲームの木村重成もかなりイケメンに描かれていますね。

 

まとめ ー 戦国時代の武将は中身もイケメン

木村重成や直江兼続はその容姿もさることながら、行動が何よりも爽やかでいいですね。快男児といっていいでしょう。

 

特に木村重成は瀕死部下を助けるために戦場に戻ったり、死を覚悟して兜に香を焚きしめておくなど、立ち居振る舞いがその評価につながっています。

 

上に挙げた以外では若いころの斎藤道三や宇喜多直家も美貌の持ち主だったといわれています。松永久秀もそうなのですが、実力でのし上がった武将は、自身の容姿さえも才能の一つとして利用したのでしょう。

 

他に明智光秀の娘である明智珠子(細川ガラシャ)と細川忠興の夫婦は、織田信長から美男美女の組み合わせだといわれた話が伝わっています。細川忠興もイケメンだったのかもしれませんね。

 

逆にイケメンと世間一般的に思われているのに、意外とそうでもない武将に真田幸村(信繁)や伊達政宗、前田慶次郎などがいますが、それを書くのは野暮というものでしょうか。